映画の地球 アーティストの評伝映画 1 映画 『ショコラ』 ロシュディ・ゼム監督
映画 『ショコラ』 ロシュディ・ゼム監督
~キューバ出身の黒人ボードビリアンの生涯
20世紀前半の幾年月、パリの夜を掌中に収めた“褐色のヴィーナス”ジョセフィン・ベーカーの毀誉褒貶に満ちた波乱万丈の物語ならたいていの人はしっている。敗戦直後、日本にやってきたベーカーは、戦災孤児をフランスに連れ帰り養母となった話も忘れがたい。欧州のショービジネス界で最初に成功したアフロ系女性(出身は米国)であった。だったら、最初のアフロ系男性がいるはずだ、とは何故か思わなかった。そういうことは指摘されてはじめて気づいたりするものだ。「最初の」と冠詞をつけるには斯くもふさわしい成功の挿話が幾つもないと献呈されはしないし、伝説化もしない。
本作は、その男性芸人の存在を評伝的にではなくエンターティーメントのけっこうのなかできちんと教えてくれた。
ほろ苦くも、湿度の低い、じめじめしたところのない心地よい作劇であった。その男の芸名が「ショコラ」、その皮膚の色からチョコレートと比喩されたのだろう。本名はただ「ラファエル」、苗字はない。1865~68年頃、まだスペイン領であったキューバのハバナで奴隷の子として生まれた、と言われる。年齢も不詳ということになる。ラファエルとはおそらく奴隷主が便宜的につけたものだろう。そのラファエルが欧州に渡ったのもスペイン商人に買われ、バスク地方の農場の家内労働者として送り込まれたからだ。その農場から逃げ出し国境を越えてフランスの零細サーカス団に雇わ れた、というのがその前半生となるが、その出自にも確証があるわけではない。本人がそう語っただけだ。そのあいまいな分だけ、映画は興行的にも受けそうな挿話を適宜、加味することができる。そのショコラをいまやアフロ系フランス男優として声価をゆるぎないものにしつつあるオマール・シーが演じた。
ジョセフィン・ベーカーもスペイン男性とアフロ系女性とのあいだに生まれたという出自を知るとき、ともに「スペイン」がひとつのキーワードとなっているが、その辺りをラテン風オタク的に語るのは控えた方がいいだろう。単なる偶然に過ぎない。ラテンオタクの無教養、反アカデミックな姿勢はしばしばうんざりさせれてきた。
ベーカーもショコラもステージで自らのアイディンティティを創造し磨き上げ名声を高めた努力の才能であり、そこに国籍も出自も超越した汗が結晶した労苦の輝きがあった。
奴隷の子として育ったラファエルには当然、正規の教育の機会などあるはずがなかった。世間そのものが社会教育の場であった。蔑まれ、下積み労働に汗しながら生きるためフランス語を覚えたのだろう。外国語を早く身に付けようと思えば、恋愛か飢餓がもっとも近道だ。
ラファエル・・・たまたま入った、というより拾われたのだと思うが、サーカス団での役どころはめぐまれた体躯がアフリカの野生とか獰猛といったものを象徴する、として客引きに使われていただけだ。その点、オマール・シーの肉体は格好の素材を提供した。
ラファエルの肺腑から絞り出される野卑な〝音”の連なり。ただの記号、観客の乏しい知識に平伏するアフリカの“獰猛”。吠え叫び、サーカスの観客のメインである子どもたちをいっとき安全な恐怖というカタルシスを与えればそれで充分という役回りだった。
そんなラファエルの前に、聴衆に飽きられ、なんとか打開しなければと焦る落ち目の芸人フティットが現われる。この役をチャーリー・チャップリンの孫ジェームス・ティエレが演じる。場末のうらぶれた芸人の悲哀も、かつて絶頂を極めた時代の残り香もそこはかとかぐわせ、あたりを睥睨する威厳もその小さな身体で演じ切る演技力は、やはり祖父の血筋かと思ってしまう。
ラファエルもよるべきなき世界を生き延びてゆくためには、このままではダメだと知っている。先は分からないが、どうせ身ひとつ、係累もない自分には賭け、そのものが人生のようなもの、芸人として辛酸を嘗めたフテットについていくのも時の流れだとコンビを組むことになる。そして、シロクロ、デコボココンビは新手のボードビリアンとして逞しくのし上がってゆく。
音楽家でも俳優でも、あるいは政治家でも企業家でも成り上がりの物語は映画の大きな要素である。そんな現実にはなかなか起こりようもない成功譚、しかし稀に確かに起こりうる話に惹かれるのだ。当たるはずがないと思いながら、ついつい買ってしまう宝くじに夢をみるようなことだろう。
時に観客の下種な優越感をくすぐりつつ拍手喝さいをうけながらラファエルははからずもアフロ系市民の地位向上に貢献することにもなった。
ジョセフィン・ベーカーもそうだった。米国の公民権運動のなかで、たとえばアフロ系の盲目の歌手レイ・チャールズ、あるいは俳優のシドニー・ポワチエが果たしたような位置だ。
ラファエルを演じたオマール・シーの主演作といえば、『最強のふたり』があり、『サンバ』があった。ともに、現代のフランス社会を揺さぶっているアフリカからの不法移民を演じ、したたかで、教養はないが、まっとうな正義感はもっているという底辺労働者の役を演じきた。その逞しさ後姿に不法越境路の困難、苦行をみせながら演じた好演を思い出す。それは、本作の演技にも深みを与えているように思う。
*2017年1月中旬公開予定。
映画の地球 キライ編 1 映画『映画と恋とウディ・アレン』 ロバート・B・ウィード監督
映画『映画と恋とウディ・アレン』 ロバート・B・ウィード監督
小生、ウディ・アレンの映画がキライである。何故だか判然としないが相性が合わない。世評の高さ、ヒットしている事実をまず横において虚心になってスクリーンに注目するもキライという感情は拭えない。
まず、彼の顔が監督らしくない(監督顔ってあるのかと反問されると俄かに
答えられないが)。コメディアンとしても小生には鬱陶しい顔だ(鬱陶しい顔の芸人はヨシモトにもたくさんいるが)。脚本家というなら蔭に引っ込んでいればいい(倉本聡さんや向田邦子さんは日向に出てきたが)。しかし、彼はスクリーンに大写されるし、アノ顔で美女と恋愛したりする、それも気にいらない。だいたいセリフが多すぎる、のべつ暇なく捲くし立てる映画が多い。意味もないセリフが多いが、それが団塊となって、団塊の世代に支持されてきたから始末が悪い。
字幕から目をそらさずに凝視するのは初期のゴダール映画でうんざりしている。
わが国は間の美 学がある。語らずとも阿吽の呼吸ですべて分かち合えるつつましく節度ある文化がある。映画でいえば小津安二郎は、最少のセリフで人生の深淵に立たせてくれる。そんな文化を尊ぶ小生にはまったくもってアレンの映画はいかがわしい。そして、そんなアレンが新作が撮り日本公開が決まると、いつも郵便受けにこっそり試写状が落されているのがまず、不愉快だ。ソレが存在しているという紛れもない不快な事実は観ることによってしか癒されない。だから、出かける。そして、またキライな奴の映画に2時間も捧げてしまったと地団駄踏むのだ。
キライな奴の映画の新作紹介なんか忌々しい。はて、どうして小生はアレンの映画がキライと思うのだろうという疑問を呈することすら、不快。しかたがないので、本作をDVDを観る。どうも、この記録映画にはキライの秘密が隠されているように思ったからだ。
そしてすぐスクリーンで観ればよかったと反省 する。何故なら映画館では112分で済んだものが、DVDは80分追加の192分という長尺なのだ。ケースには「完全版」とある。じゃなんだ、映画館に足を運び、高い木戸銭を払った善男善女は“不完全版”を見せられたのかと物言いをつけたくなる。こういうのは消費庁にクレームをつけるべきだ。わざわざ「完全版」と銘打ってセールスする商人根性も気に入らない。まずもって不快だ。また80分もツケを払わないといけない。80分は片手間に見てればいいのだ、と斜に構えて視聴する。80分とはベートーヴェンの第九以上の時間だ。まったく時間泥棒ではないか。
そして、良くできたドキュメンタリーとなっていることに腹に立てる。「良くできた」とはアレンに対する称賛ではない、本作のロバート・B・ウィード監督に向けたものだ。
アレンは本作のなかでもシニカルなジョークを繰り返し飛ばしている。目の笑っていないアノ冷笑、厚顔さぶり。192分、退屈しないでみ てしまった自分にまた腹が立つ。
もう映画を制作しないで引退しろ、と言いたい。韓国人の若妻と乳繰り合っていろ、と下世話なヤジを飛ばしたくなる。しかし、本人、「近作の批評を気にしないですむのは次作の準備をいつもしているからだ」、なんて減らず口を叩いていることを知ると、まだまだアレンは小生にとって時間泥棒であり、不快のマグマの渦から解放されないということだ。こればかりは腹を括るしかない。映画の甘い毒は彼のフィルムが一番、濃いように思う。
▽2011年・米国映画。
映画の地球 これから公開2 ダグ・リーマン監督 『ザ・ウォール』
ダグ・リーマン監督 『ザ・ウォール』
映画の地球 ナチの余燼 1
映画『アイヒマンの後継者』マイケル・アルメレイダ監督
アイヒマン・・・いうまでもなく大戦中、ユダヤ人を強制収容所に送り込んだ元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマン。戦後、南米アルゼンチンに逃亡、イスラエルの諜報機関によって発見、アルゼンチン政府を無視し超法規的に拘束、密かにイスラエルに連行され裁判に掛けられた。その裁判の模様は世界中に配信された。1961年のことだ。
そして、表題の「後継者」とは誰だ、ということになるが、それは「あなた」であり、親兄弟姉妹でもあり、上司でもあり部下でもある・・・つまり、誰でもアイヒマンになりうる可能性があることを科学的に実証した実験「ミルグラム」の実録ドラマだ。
映画はほとんど大学構内の限られたスペースで展開する。密室劇といっていいぐらい閉鎖的、動きのない地味な作品だ。しかし、その実験はおそろしい結果を出す。被験者たちの心の波動は「悪の凡庸さ」の象徴するものだった。
アイヒマン裁判とほぼ歩調を合わせるように米国イェール大学でおこなわれた瞠目すべき人体実験。ユダヤ系米国人の社会心理学者スタンレー・ミルグラムは、「何故、ホロコーストが起きたのか、人間は何故、権威に服従してしまうのか」という人間存在の基層に潜む謎の解明に向け、「電気ショック」を用いての実験を繰り返す。この実験方法は、被験者の精神そのものに傷を負わせる疑義があるとして学会から名指しで批判されたものだ。おそらく民主国家であれば、このような実験は今後、許されないだろう。1960年代、大戦の傷痕が癒えない時代であり、冷戦の真っ只中という時勢が実験を許容したのだと思う。この実験は、発案者の名をとって現在、「ミルグラム実験」という固有名詞を与えられている。
ミルグラムはさまざまな立場の市民、男女問わず、実験の意味を問うことなく、偽の「電気ショック」機械を使って実行した。その機械は実際に機能しないのだが、被験者は機会が作動していると信じて参加する。実験の前に、謝礼が払われるリアリティーが被験者に「義務」を負わせるのだろう。わずかな金でも人を強いるものになるという実験であるかも知れない。クイズ形式で、解答をまちがった者、つまり悪意のない人に向かって、元来、遊びの要素でしかないクイズとは知りながら、段階的に「電気ショック」の強さを増していくボタンを押しつづける。なかには、こんなにショックを与えつづけると大変なことになると拒否する者も出る。しかし、そんな人はごくごく少数派で、自らに嫌悪感を抱きながらもボタンを押しつづける。
実験終了後、ミルグラムは被験者に、「なぜ電気ショックを与えつづけたのですか」と問いかける。被験者はたいてい、「俺は途中でやめたかったが。つづけろと言われたから」と答える。他の被験者もみな、自分は抵抗して、自らの意思ではしていない、と強調した。それは裁判で自己弁明したアイヒマンの答えと同じものであった。
実験で示されたデータは、「一定の条件下では、誰であろうと残虐行為に手を染める可能性は大きい」というものだ。むろん、それでアイヒマン裁判の審理に影響を与えたわけではない。ただ、ナチズムの犯罪の過半は、ハンナ・アーレントが主張した「悪の凡庸さ」を示したことになる。
ミルグラムを演じたピーター・サースガード、彼の恋人役にはウィノナ・ライダーが配されいる。助演陣には演技派の名優たちが据えられ、小さな空間のなかの心理劇に奥行きを与えている。サイコキックなサスペンス映画をみるより実録の劇化として本作は恐ろしい。
*2月下旬(2017年)東京・大阪で公開。
映画の地球 バルカン諸国の映画 1
映画 サラエヴォの銃声 ダニス・タノヴィッチ監督
監督は、デビュー作『ノー・マンズ・ランド』(2001)でボスニア紛争を一方の勢力に組みしない視点で真摯に今日のあるがままの人間の問題として描いた。当時の国際社会は、旧ユーゴスラビアの解体とともにはじまったボスニア紛争をもっとも深刻な悲劇として注視していた。スロベニア、クロアチア、コソボ、さらにマケドニアまで飛び火し、それらの紛争のいずれにもセルビアが関与した。西側からの視点でいえばセルビア民族主義は悪の権化のごとく見られていた。そういう時勢のなかで『ノー・マンズ・ランド』、オスカーの外国語映画賞をはじめ多くの国際映画祭で賞賛された。
余談だが、東日本大震災でヨーロッパにあって、もっとも早く慈善活動をはじめ義捐金をあつめたのはセルビアの人たちであったことは記しておきたい。
すでに3年前のことになるが、クロアチアのアドリア海沿岸のスピリッツ空港でレンタカーを借りてボスニアに入国する個人旅行をしたことがある。サラエヴォや、激戦地となった地方都市にも足を延ばした。ここで、その旅の詳細は書けないが、本作の舞台となった場所にもいっている。
サラエヴォの街を歩き、ドライブしながら思ったことを正直に書けば、復興が驚くほど早い、というものだった。中米にながく暮らした私は内戦で疲弊したニカラグア、エル・サルバドル、グァテマラで辺境部まで足を延ばしているが、その尺度から言えば、クロアチアも含め、復興の速度はやはりヨーロッパの国である、という当たり前だが今更ながらに思い知らされた。基本的に国民の教養度、政治家たちの文化度、内戦以前の国全体のポテンシャルの高さは、そのまま内戦後の復興事業を後押しすることになったものと思った。
第一次世界大戦の引き金となったサラエヴォ事件は、小さな川に掛かるプリンツィア橋を渡った市街地の切れ目で起きた。セルビア青年がオーストリア皇太子を暗殺した事件だ。その場所はいまもそのまま保存され、近くの建物の壁にはプレートや事件当時の写真や新聞コピーを掲げている。橋の片側は公園となっていて、なかなか感じのよい界隈で、その公園の北側に広がる坂の多い市街地のなかに日本大使館がある。そのあたりはサラエヴォの旧市街でいまでもイスラム系ボスニア人、正教徒のセルビア人、そしてユダヤ人などが行きかう。紛争中は、この界隈にも砲弾が打ち込まれ、現在でも焼け跡がくろぐろとしたオベリスクとなって取り残されている。しかし、サラエヴォは中米基準でいえば外観 はすっかり復興しているといって良いだろう。
映画のほぼ9割の撮影場所となったホテル・ヨーロッパは紛争中、おおきな被害を受けたところで、それでも外国記者が取材のベースを置いていた。そのホテルも再興され本作をみていれば良くわかるが、傷跡ひとつ見出せない感じだ。
現在のボスニア=ヘルチェゴビナは一見、静穏である。しかし、ほんとうは危うい平和が保たれているといってよいだろう。この国は首都サラエヴォだけでなく、みえない国境線が引かれている。映画ではそれは語られていないが、現在のこの国はセルビア人が主たる住人とするスルプスカ共和国が存在している。世界地図には図像化されることはないが、この見えない国には国旗もあれば国章もある。2つに分断されているのだ。平和と危機は背中合わせに存在し、サラエヴォ事件の成否もまた否定と肯定が共存している。そうした複雑・錯綜した状況のなかで日々、生きてゆく市民にもそうした矛盾はなんかの影を落とす。それは表面化することもあれば、沈降したままでいることもある。映画は、サラエヴォ事件から100周年を迎えた式典を主題にした戯曲を、さらに増幅させて群像サスペンスにしたものだ。カメラがたえず俳優たちの背を追うように揺れる画面はドキュメントのリズムを与え、現実感を与えている。
この映画をみているとボスニアに生きる人たちは現在もなお「平和」のなかで居心地の悪さを味わっているような気がしてならない。舞台となったホテルから車で15分ほどのところにサラエヴォ冬季オリンピックのメイン会場となったスタジアムがあるが、内戦中、市街戦で犠牲となった人たちの臨時の墓場となった。いまは近くの墓地に移されているが、その墓石の建立がほぼ同年ということの悲劇性がサラエヴォを覆っているように思えてならない。そういう重苦しさを映画をみているあいだ、私はずっと感じていた。
タノヴィッチ監督は、結論なんて指し示さない。問題提起の監督である。現在社会を真摯に考えようとする人たちへ素材を提供する創作家である。
*3月25日、東京地区公開予定。
映画の地球 これから公開 東欧の映画 1
映画の地球 環境編 1
水資源の深刻さを反映した007シリーズ『慰めの報酬』 マーク・フォースター監督
007、ジェームズ・ボンドといえばスコットランド(と時勢をかんがみ、そう書いておく)の名優ショーン・コネリーによって英国映画のヒット・シリーズとして定着できた。だから、彼がボンド役を降りてからは久しく等閑視してきた。現在のボンドはダニエル・クレイグが勤めるが、コネリーの陽性なキャラクターは、すっかり陰性に換わった。ダニエルの暗さは21世紀序章期の世界の混迷、錯綜した諸国間の利害関係そのものを解きほぐす手立てなどいまはないのだという諦観そのものだ。
東西冷戦という枠組みのなかで活動を開始したコネリー・ボンドだったが、ベルリンの壁が消えた後の“敵”は錯綜し見えにくくなった。英国のスパイとしての007もときに米国CIAや、従来の西側の組織とも対立することなった。本作でも、007は英国の エージェントを殺してしまう。陰性になるのもまた仕方がない。
“敵”は多国籍企業であったり、コンシアームであったりする。巨大な資金をもち八岐大蛇のように右にも左にもなびく頭をもつ組織が利権を求めて暗躍するとき、国境は失われ、刻々刻苦と変化する経済状況によって、昨日の味方は敵へと移行する。要するにグローバル経済下でのスパイ活動にはイデオロギー的信念は毀損される。
2008年の旧作に属する007を敢えてここで書いておこうと思ったのは、南米ボリビアの水問題が主要テーマになっていたからだ。現実にボリビアでは水問題は大きな政争を惹起した。南米は水資源にゆれる地域である。それを世界的なヒット・シリーズのなかで語られたということで、記憶されるべきだと思った。本作を紹介し批評する数多の文章のなかで、ボリビアの水 問題に言及するものが見当たらなかったからだ。おそらく映画批評をなりわいとする方の多くは、映画で描かれた先住民の苦境は映画のなかのエピソード、こんな極端なことあるわけはないと思う方が多かったのだろう。現実はより深刻である。そのあたりは拙著『南のポリティカ』あたりを読んで欲しい。トランプ大統領のツィターではないが、マスメディアは読者のニーズにそってしか現実を報道しない。
もう5年以上前のことになるが、配給会社アップリンクがドキュメント映画祭を短期間開催したとき、その1本でボリビア問題を取り上げた1作があり、そこでコチャバンバ市の公営事業たる水道事業を多国籍企業によって民営化する計画が取り上げられていた。その記録映画は一般に普及することはなかった。その意味では、007の一巻、本作は貴重なのだ。
2008年といえば、コチャバンバ市などの水道事業の民営化推進に反発する住民らの抵抗が流血の騒動になり、そうした運動を背景に同国ではじめて先住民出身の大統領が誕生していた。けれど既得権にしがみつく保守層は現実に新大統領に対して力で抵抗していた。007は元来、その新大統領の政権を崩壊させる側につくはずだが、ダーティーなイメージにするわけにいかなかったのだろう。現実の推移を無視したシナリオを作って、水資源を独占しボリビアを牛耳ろうという得体の知 れない組織に対立するボンドの活躍を描いた。
その意味では対立構造がよくいえば錯綜、悪く言えば支離滅裂。しかし、世界は“国益”むき出して蠢いている奇態な有機体になっているとのメッセージと思えば、色々、納得のゆくところがある。ボンドはゆえに陰性にならざる得ない。その意味ではダニエル・クレイグは適役なのだ。
本作のボンド・ガール、オルガ・キュリレンコはウクライナ出身の女優さん。ミラ・ジョヴォヴィッチに次ぐ同国出身の女優として充実した活動をしているが、ボリビア白人独裁者の娘という役には少し無理があると思った。オルガが悪いのではなく、ボリビアを相変わらず“黄金の便器に座る国”と揶揄した冷戦期の時代感覚でかの国を描いた制作サイドの問題だろ う。水問題は借りたが、先住民大統領を誕生させたボリビア国民の思いはまったく無視されているのは所詮、ロンドンに治外法権的な金融ゾーン「シティ」を守らなければならない英国諜報員映画の限界であろう。スコットランドのショーン・コネリーが007を退職するのも止む終えまい。