映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 これから公開 自ら解毒する性根のない作品 アルゼンチン映画『笑う故郷』 ガストン・ドゥブラット監督

自ら解毒する性根のない作品 アルゼンチン映画『笑う故郷』 ガストン・ドゥブラット監督

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 原題はスペイン語で「名誉市民」だが、邦題は何故か意味不明の「笑う故郷」に。本作は「名誉市民」の方が象徴的にふさわしいし、反証的なアイロニーを形成すると思う。昔、ラテンアメリカの小国を舞台にしたグレアム・グリーン原作の『名誉領事』という映画があったが、スクリーンの空間のなかで表題に実質を与えて印象を残す効果があった。表題は作品の顔であろうと思うから、もう少し吟味して欲しいと思う。
 さて、その名誉市民(むろん創作だが)はノーベル賞作家ダニエル・マントバーニ(オスカル・マルティネス)である。アルゼンチンは首都ブエノスアイレスの近郊、といって も同国の距離感における近郊であって、日本でいえば東京と北関東の小さな町ほどの距離感だろう。この距離感は本作にとって重要な設定で、首都の政府・官僚たち、アカデミズムから一定の距離感を保つことでできる設定である。だから、都会の上品なエスプリにどっぷりと浸っていない生地の野卑がある。田舎町のお偉方の反アカデミックな風土を象徴し、そこに自ら闖入してしまった西欧の知性が蒙る不快感がザラザラとした不快なサスペンス風の苦い効果を与えている。
 ノーベル賞受賞後、一連の祝典行事に追い回された後、次第に飽いて辞退、欠席と引きごもりがちとなるマントバーニ。それでも日々、世界各地から参加、出席を乞う招待状を届く。むろん、それに色よい返事は出さない。ある日、儀礼的な招待状の一束に30年以上も前、出奔したまま爪先すら向けていない故郷サラスの市長から「名誉市民」の称号を授与し たいので帰郷を求める招待状が届く。最初は見向きもしない作家だが、ふと思うことありといった風情で、「この機会に一度、帰郷してみるか」と思い立つ。30年ぶりということは、彼は軍事独裁下の母国を後にしたことが知れる。
 帰郷し市長に迎えられ、作家は開口一番、自分のしたくないことをあれこれ述べる。その部屋にはエビータことエバ・ペロンとペロン大統領の大きな肖像画写真が掲示されていて、市長がペロン党員であることが分かる。市長が田舎のポピリストであることは、それでラテンアメリカの市民なら誰でも納得する表象だ。
 「名誉市民」の称号の授与式、返礼としての講演、消防自動車にのってのパレード、市民美術展での名誉審査員・・・とまぁ、型通りのスケジュ ールがこなされてゆく。しかし、作家を取り巻く空気はしだいに変わってゆく。まず、彼の文学がサラスを舞台として、市民を創造的再構築して描いているのだが、地づきの市民がアレは誰だと推測して、それぞれ勝手な解釈を生み出す。作家にとっては迷惑な話だが、市民にとっては文学ではなく、モデル小説として読みまれている。
 やがて、作家の知性は、その良心に忠実であろうとすればするほど市民との齟齬を生んでゆく。そして、最後は石もて追われるように町から放逐され、それどころこか誤殺されてしますのだ。で、これで終わればルイス・ブニュエルの毒を引き継ぐ才能と監督を褒めただろう。ところが、おそらく、まったく無駄な独り悦に浸るように一場を作る。
 作家の新作発表の記者会見の場である。そこで、映画で語れてきたことが「新作」の内容だと話は堕ちる、落ちるではなく堕落の堕ちる、である。この記者会見の一場で、この作品の毒はみごとに解毒されてしまう。お話なんですよ、〈現に私はこの通りピンピンしている〉と腰が引けている。ブニュエルならこんな不手際をしないだろうし、発想すらしなかっただろう。
 それにだ・・・ノーベル賞受賞作家とあろうものが、自身の「受賞」をサンプリングして文学を描こうというさもしさをもつわけがない。これは大衆作家のセンスだ。自らのノーベル賞受賞を物語って文学にできるのは、『ドクトル・ジバゴ』のパステルナークと、『ガン病棟』など一連の長編小説によって受賞したソルジェニーツィンぐらいなものだろう。二人ともソ連政府の圧力で国外に出られず、授賞式への参加はおろか、受賞作すら国内刊行ができなかった。彼らなら受賞の日々を語るだけでも貴重な証言文学を書いただろう。
 本作が原題の「名誉市民」ではなく、軽味の「笑う故郷」とされたのも、実際、この作品の性根のなさに対する批評ではなかったのかと思ったりする(真実は知らないが・・・)。
 
▽9月、岩波ホールで公開。 2016年・アルゼンチン映画。117分。

映画の地球 核戦争と映画 3 映画「トランボ」 ジェイ・ローチ監督

映画「トランボ」 ジェイ・ローチ監督

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 *「核戦争と映画」のカテゴリーに入れるのは少々、無理があるが、冷戦初期の゛熱戦”下における「赤狩り」時代を描いた象徴的なポリテック主題映画として、ここで語っておきたい。

   *   *   *


 筆者にとってトランボことダルトン・トランボの名は、彼が1939年に発表した小説「ジョニーは銃を取った」の原作者であり、1971年、ベトナム戦争の最中に唯一の監督作品となった『ジョニーは戦場へ行った』(邦題)を撮ったハリウッドの良心として記憶される。
 四肢はおろか姓名すら一個の爆弾で失った若き負傷兵の物語は、第二次大戦直前に準備され、米国政府が当時、志願兵募集のキャッチフレーズとしていた「ジョニーよ銃を取れ」に対する反論として書かれ刊行された。そのためトランボは当局のブラックリストに載せられ、小説も発禁にされた。トランボの名作は、ドイツの反戦文学の古典的名作「西部戦線異常なし」の米国版といってよい。
 そうしたトランボの政治的姿勢は、大戦直後のいわゆる「赤狩り」のなかで筆頭に指弾されることになる。そして不当に逮捕され、禁固刑の実刑を受ける。釈放後も、その思想信条をいささかも曲げず、ジョン・ウェインらに代表される右派と対峙、ハリウッドの良心として筋を通した才能だ。

 むろん本人は米国の民主主義を守護する愛国者として行動しているのだが、「反米主義者」との汚名をあびせられ、仕事も奪われる。しかし、食うために働かなければならない、才能を安売りしてB級映画の脚本も手がける時代もあったし、匿名で多くの名作の原案・脚本を書きつづけた。ちなみにその作品名をあげると、オードリー・ヘップバーン主演『ローマの休日』、カーク・ダグラス主演『スパルタカス』他、『脱獄』『パピヨン』など数多くの名作、ヒット作が並ぶ。
 そんな名脚本家の後半生を描いたのが本作だ。必然、多くの著名人が登場することになる。いや、そうした著名人を描かないと映画にならない。多くの人の「名誉」に関わる題材を扱うということで、ハリウッドの長い歴史のなかでも重要な挿話であったトランボの物語を映画化するのは至難のことと思われてきた。トランボ死後、40年の歳月を待たなければならなかったのは、そうした事情があると思う。

 大戦後の熱い「冷戦」下で起きた「赤狩り」、それはデマゴギーの旗振り役マッカーシー上院議員が煽動したことでマッカーシズムとして知られるが、本作では、そのマッカーシ議員は描かれない。米国を追放されたチャップリンのことも取り上げられていない。しかし、象徴的にソ連のスパイとして告発され、無実の罪で処刑された科学者ローゼンバーク夫妻のことはニュースとして映画として登場する。
 ともかく「赤狩り」の狂熱によって不当に命を奪われた人、職を奪われた人、家族の崩壊、一家離散、亡命などさまざまな悲劇が繰り返された。この渦中にあった著名人の名をあげてゆくだけで数ページになる。
 映画は、この政治的狂熱をトランボという稀有な才能と、その近しい友人、仕事仲間に収斂させて描いた映画だ。その手法はよく理解できる。しかし、トランボの不退転の強さ、その硬軟取り混ぜての抵抗精神を、主演のブライアン・クランストンは表現できたかというと疑問符をつけねばならない。“軟”の傾きが大きいように思ったからだ。それは監督の意図でもあっただろうが、映画に登場し、それなりの役割を担うエドワード・G・ロビンソン役のマイケル・スタールバーク、ジョン・ウェイン役のデヴィッド・ジェームズ・エリオットまでが軽き存在にみえてしまう。
 思想信条の自由という民主主義の根幹に関わる問題をトランボの生き様に托して描こうという前提があったはずだろう。強いて深刻がるそぶりはないほうがよいし、わざとらしくあざとくもなるだろう。しかし、こういう作劇ではないだろうと思わせる軽さに私は終始、違和感を抱きながらみていた。

 時代のおおきなうねりのなかで吞み込まれてしまう、せき止めようのない政治的な粗暴は何時の時代、どこの国でも起こりえる。いま、移民排斥をレイシズムの語調で訴え、特定民族を忌避する大統領候補を本選に送り出した米国から、こうした映画が送られてきたことはすこぶる暗示的ではある。  2016-06記

映画の地球 核戦争と映画 2 映画『グッドナイト&グッドラック』ジョージ・クルーニー出演・脚本・監督 

米国、“赤狩り”時代に報道の自由を守り抜いた男を描く映画『グッドナイト&グッドラック
  ~ジョージ・クルーニー出演・脚本・監督 2005
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*「核戦争と映画」のカテゴリーに入れるのは少々、無理があるが、冷戦初期の゛熱戦”下における「赤狩り」時代を描いた象徴的なポリテック主題映画として、ここで語っておきたい。

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 先日、7月公開映画『トランボ』について書いているとき、2005年の旧作『グッドナイト&グッドラック』を思い出したので忘れないうちに、この機会を利用して書いておこうと思った。


 1950年代、冷戦下の米国で起きた狂気じみたマッカーシズム。人権弾圧、表現活動への圧迫が、愛国主義の名の下に「正義」として“赤狩り”が行なわれた。そのなかで敢然と、醒めた目で闘った一人が映画『ローマの休日』など、いまではハリウッドの古典となった幾多の名作のシナリオを書いたダルトン・トランボであり、映画『グッドナイト&グッドラック』の主人公エド・マローデヴィッド・ストラザーン)であった。
 トランボに比べるとマローの日本での知名度はほとんどない。CBSテレビの看板ニュースキャスターとして、人気番組『シー・イット・ナウ』をもっていたが、現在のインターネット時代のようにリアルタイムで米国のTV番組を観ることは不可能だったから、知られていないのは当然だ。米国では“放送ジャーナリズムの父”として名を遺す才能であったとしても。
 ジョージ・クルーニーが長年、温めていたテーマであったらしく、脚本を書き、出演もし監督も兼ねた。クルー二ーは、マローの不退転の立場をサポートするディレクター役で登場する。『トランボ』では描かれなかったマッカーシー上院議員が本作ではニュースフィルムのなかでしばしば登場する。それらはみなモノクローム映像ということもあってか、本作もそうした記録フィルムとの同化、同時代性の雰囲気を醸し出すためモノクロームとなっている。マッカーシー議員が映画のCBSスタジオのTVに映し出され、リアルタイムの物語として描かれる演出はクルーニーのしたたかな才能だろう。
 演出も抑え目で、マローを英雄的に描くことなどしていないし、当時のルーティングワークのなかで淡々とことが運ばれてゆくなかで、陰に日向に、当時の狂信的な世論が、マローと、その仕事仲間を圧迫してゆく沈うつな雰囲気が描かれる。
 マローが淡々と読み上げる原稿は、それ自体、マッカーシー議員に対する批判であり、抵抗であり、明日には自分の首も飛ぶかもしれないという状況のなかでのヒロイックな行為でもある。しかし、映画はそのあたり声高く描かない。番組の終り、マローはいつでも素っ気なく、「グッドナイト&グッドラック」と簡単な挨拶を視聴者に送っていた。それが本作タイトルの由来だ。

 平常心で権力悪と闘う・・・・そういうジャーナリスト、そんなジャーナリストを支えるスタッフ、マスコミ企業の存在はいつの時代は必要だろう。TV界におけるニュースキャスターの影響力は米国では日本と比較にならないぐらい大きい。つまり日本のソレは与えられた原稿を消化するだけで、批判してもわが身に圧力のかかる心配がない芸能人あたりを叩く程度の言辞はあったとしても、政治的な発言にはいつもグラデーションのさじ加減に留意しているということだ。

 クルーニーの映画のなかではもっとも地味な映画だと思うが、『トランボ』の傍系資料として観て欲しい作品だ。  2016-06記

映画の地球 アフリカを描く 3 *シエラレオネ『ブラッド・ダイヤモンド』エドワード・ズウィック監督

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 2006年、レオナルド・ディカプリオは、本作でアフリカの貧しい白人入植農民の息子、長じて傭兵崩れのダイヤモンド密売人となったアーチャーを演じてオスカーの主演男優賞の候補になっている。

 主題は、先進国の宝飾メーカーがアフリカの小国の紛争を利用して不当に利ざやを稼ぎ、紛争の混乱のなかで教育もまともに受けられない少年たちを兵士に仕立て上げ内戦を泥沼に導いている北の資本家たちへの糾弾ということになるだろう。必然、アクション・シーンが多くなるが、背景説明が〈現在〉の時点からの台詞だけの回顧となってしまって、その辺りの掘り下げは浅い。
 アフリカの土地にしがみつかなければ生きてはいけなかった貧しい白人植民者の息子という出自。その植民の地が独立した際、被征服地の先住の民の怒りは憎悪となって沸騰し白人植民者に向けられ、アーチャーの父母は惨殺された。かろうじて南アフリカへ逃避したアーチャーは、アパルトヘイト下の軍隊でゲリラ戦のノーハウを仕込まれ、冷戦下のアンゴラで大義のない戦いのなかで人間性を喪失してゆく。二重にも三重にも厭世観にとらわれている青年の役だ。

 ダイヤモンドの密売に手を染めるのは、それが命がけの仕事、という緊張感と、利益の多さだけだ。生きているから喰う、生きるために人を殺(あや)める。そんなデスペレーとな生き方だ。しかし、その絶望の深さが演技にあらわれていなし、映画そのものも主張過多で散漫になっている。

 一兵士として強制徴用された少年と父(ジャイモン・フンスー)の挿話も本作のサイドテーマで、その話しを膨らましても一遍の物語となる。現にフンスーの演技も評価され受賞は逃したがオスカーの助演男優賞にノミネートされた。しかし、父子との話だけになってしまうと社会派作品となってしまって娯楽性は希薄になり、アフリカの資源問題を広く知らしめる映画とはならない。ここにディカプリオという名の大きさがあり、彼が主演したことで娯楽性も獲得し、世界市場に出ることができた。大スターの公的存在理由は、そういう側面があるということだ。

 舞台となった西アフリカのシエラレオネの他に、台詞のなかで南アフリカアンゴラローデシアジンバブエリベリアという国が語られている。W杯サッカー、ラクビー大会を開催した南アフリカを除けば、大半の日本人には見えない国だ。いま国名を掲げたが、この並べ方はおかしいとすぐ気づいた人は国際感覚に鋭敏といえるかも知 れない。ローデシアジンバブエは同じ国であるからだ。ローデシアが英国より独立して黒人の主権国家となりジンバブエとなった。ディカプリオ演じる青年は、その植民地ローデシアに入植した英国人の父母のもとに生まれた。だから、彼はローデシアと語りつづける。彼とほのかな恋情を交わすことになる博愛主義者らしい女性ジャーナリスト(ジェニファー・コネリー)たちはジンバブエとしか言わない。そのあたりの細やかな演出は見落とせない。
 しかし、製作者たちのそうした意図は観る者に普遍的には伝わらないだろう。表題は、紛争の資金調達のため非合法的手段で取引きされている「紛争ダイヤモンド」の意味だが、日本人がその時事用語にどれだけ精通しているだろうか? 最近、首都圏で店舗拡大をつづけている宝飾品メーカー・ツツミは「紛争ダイヤモンド」は扱っていないと声明を出しているが・・・。
 現在、南スーダンで武力紛争がつづく地域は携帯電話などにつかわれるバッテリー用の希少金属の鉱床があることで悲惨な状況になっている。映画のなかで「(シエラレオネに)石油が出なくてよかった」と語る老人が登場する。現在の中東の紛争のおおきな要因もまた石油であってみれば、本来、埋蔵地をもつ国にとって掛け替えのない資源であるべきものが、ほとんど惨劇の温床となってしまっている。その矛盾をダイヤモンドに象徴化したのが本作である。

 本作にアントワープが登場するベルギーの都市だが、ここにダイヤモンドの 品質基準の選定、取引業者たちの倫理規定などを決める国際機関がある。
 ベルギーの発展もまた現在のコンゴ民主共和国を中心としたアフリカの地から富を収奪したことにある。特にレオポルド2世治世下におけるコンゴに対する圧政はすさまじく、総人口の5分の1が消えたといわれる。「イスラム国」戦闘員によるテロによってベルギーの首都ブリュセルが多大な被害を受けた。同市がテロ実行犯の潜伏場所となり、被害を受けたとき、レオポルド2世時代まで遡って南から審判が下されているように思ったのは、筆者ばかりではないだろう。
 
 シエラレオネの貧しい農民たちが強制労働 で川底の小石を掬いダイヤモンドの原石を探し出す光景は、アマゾン流域で金を探すブラジルの貧しい労働者たちの姿にも重なる。
 世界は不正に満ちている、と指弾したところで何も変わらないが、先進国といわれる国に住むわれわれは朝のコーヒー一杯から不正に加担している。それを自覚するかどうかは個人の知力と想像力、あるいは倫理観だろう。でも、そのコーヒーを飲むことは止められない。  2016-05-01記

Ω 映画の地球  核戦争と映画 1 『原爆下のアメリカ』アルフレッド・E・グリーン監督

『原爆下のアメリカ』 (原題Invasion,U.S.A) アルフレッド・E・グリーン監督
 原爆下のアメリカ
 レンタルビデオ屋さん供給用にと、倉庫払底作業のなかから発掘されたようなB級SF映画。邦題、原題(侵略,U.S.A)もまた、なんとも工夫のない直裁なものだが、そこに冷戦時代の“熱戦”が象徴されているとみてよいのかも知れない。
 全米を魔女狩りの恐怖で覆った非米活動委員会が本格的にはじまった1953年制作の作品ということでも見落とせない。世は"赤狩り”の季節であり、隣人を疑え、という殺伐した世相下で、はじめて「核戦争」を主題とした映画が制作された。核実験で地層が変化し蘇生した原始怪獣が日本列島を襲う映画『ゴジラ』が制作されるのは、その翌年だ。
 シベリア経由でアラスカに侵攻した国を映画では特定していないが、ソ連に決まっているわけだが、その軍人たちの制服や仕草・動作、儀礼など間違いなくナチドイツ軍から援用されている。“鉄のカーテン”で遮蔽された向こうの現実は当時、隆盛期のナチズムと対置しうる恐怖感が米国にあった、とみるべきか。非米活動委員会の存在は、その裏返しのようなものであるわけだ。
 映画は「近未来」モノとなるが、近未来の「映像」はすべてアーカイブ映像の流用という安易さ。
 ニューヨークのとあるバーで語り合う男女6人の井戸端会議的な時局談義の最中、店内のテレビが「アラスカが軍事侵略された」と臨時ニュースを流す。以降、米国各都市が次々に原爆が投下されてゆく。ニューヨークも容赦しない。しかし、映画での「原爆」は通常兵器の巨大版という扱いで放射能がもたらす被害などまったく考慮されていない。つまり、この時期、米国映画界はヒロシマナガサキの核被害の実態はまったく共有されていなかった。政府自身が隠していた。この時代を諷刺したパロディ映画『アトミック・カフェ』が後年制作されるが、権力犯罪の一端を例証できる映画のサンプルともいえるのが本作だ。
 冷戦下、米国は核実験を国内の砂漠地帯で核実験を繰り返す。その際、多くの兵士が放射能被害にあっている。兵士自身もそれに気づかず退役後、深刻な後遺症のなかで苦しんだ。そして、政府に責任を問うでもなく沈黙と苦悶のなかで死んでいった。民衆の無知は、こうした映画からも生み出されるということだ。
 日本でも1954年に公開されているということだが、当時、どんな批評が出ていたのか興味を抱く。B級映画として無視されたのだろうか? お時間のある読者がいたら是非、調べて欲しい。 *2016-10-29

 

 

映画の地球 布教と映画*マーティン・スコセッシ監督『沈黙』~カトリック諸国での反応

映画の地球 布教と映画*マーティン・スコセッシ監督『沈黙』~カトリック諸国での反応

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 遠藤周作の代表作『沈黙』は、江戸初期、長崎・島原地方、隠れキリシタンの住む寒村を舞台に、信仰と棄教という二元論を真正面から描いた日本文学のなかでは特異な位置を占めるドラマであることは今更、言うまでもないだろう。小説は、仏教が習俗と化している土俗的な風土のなかで耶蘇教がどのように受容されていったかという織田信長時代の物語はすでに遠い過去となり、いまは苛烈な弾圧のなかで青息吐息となっている日本の辺境の物語だ。禁教となって久しい日本に命を賭して渡ってきたイエズス会士と日本人信徒の交流、弾圧する知識層の役人たちを交錯させながら描いた。1966年に上梓されて以来、いまも読者を失わない名作だが、カトリック作家・遠藤の文学はその主題に関わらず世界的な影響力は小さかった。それはカトリック風土のラテンアメリカでも存在感は小さかった。    
 そんなラテンアメリカの風土に遠藤文学の評価を促すきっかけとなっているのが現在、日本でも公開中の映画『沈黙』だ。米国のマーティン・スコセッシ監督が構想28年の末に 昨年、完成させた大作だ。1971年に篠田正浩監督が制作していて、当時、好評を得ているが、海外で広く知られることにはならなかった。
 スコセッシ作品は、良い意味でのマーケティングなのだが、先行上映をローマのヴァチカンにフランシスコ法王を迎え、聴衆も映画の修道士に合わせてイエズス会司祭たちを中心に多くが集まった。同法王は、イエズス会が生んだはじめての法王だ。そしてラテンアメリカカトリック教会出身(アルゼンチン)のはじめての法王でもある。
 ヴァチカンでの試写会には当然、中南米諸国の司祭たちも参加したようで、発信は同じ文面なのでヴァチカンに特派された記者が書いたものと思うが、中米各紙の報道によれば、遠藤原作はもとより、日本におけるカトリック信徒への過酷な弾圧、外国人司祭たちの殉教の実態などが意外と知られていないということだった。メキシコでは首都郊外のクエルナカバの中央大聖堂に、 長崎で殉教したメキシコ人司祭の像が描かれていることもあって、知る人も少ないない。それでも、その壁画の存在そのものを知る同国人は少ない。記事では法王が具体的な感想を述べた、ということは書かれていないが、
ヴァチカンで先行上映され、法王も参観したとなれば、それだけでカトリック諸国では大きな宣伝効果をもたらす。スコセッシ監督はなかなかしたたかである。篠田監督にはそうした発想はまったくなかっただろう。
 ちなみにラテンアメリカでのカトリック布教の主たる担い手は16世紀以降、フランシスコ会ドミニコ会が当たった。20世紀の中南米諸国で貧者の立場にたって活動し、時に法王庁から指弾されたり、破門されたのは聖職者の多くはイエズス会士であったが、ラテンアメリカにあってはイエズス会は後発組であったが、植民地時代には植民当局としばしば対立し、教会資産を没収されたり、国外追放されたりしている。学校教科書に出てくる話ではないが、日本にイエズス会が早く入り、布教に成功したのはヴァチカンから東アジア地域での活動からの指示でもあった。後年、日本での布教失敗はいろいろ論議されるのだが、もし、日本での布教活動をフランシスコ会ドミニコ会などが担当したら、また違った様相を帯び、強いては日本の歴史もまた違うものになったのではないか、という話はある。 
 

映画の地球 ラテンアメリカの映画 7   米墨国境地帯は映画の宝庫 『ノー・エスケープ ~自由への国境』 ホナス・キュアロン監督

映画『ノー・エスケープ ~自由への国境』 ホナス・キュアロン監督

f:id:cafelatina:20170819090503j:plain 2015年の制作だから、まだトランプ大統領が共和党の正式候補にもなっていない時期の映画だ。しかし、米墨国境地帯をめぐる状況が大きく変化することを予見したような映画が撮られたということでは暗示的だし、日本での公開が実現したのもトランプ効果であることは間違いない。

 

 本作には小品にも関わらず2013年、オスカーを複数獲得した『ゼロ・グラビティ』のスタッフが全面的に投入されていることでも、メキシコ側からみた国境問題に対する認識度の高さをうかがわせる。ハリウッドで成果を上げたメキシコ人スタッフが故郷を振り返り、やはり撮るべき映画を制作しなければいけない、と使命感のようなものを感じた、と思わせる作品となっている。
 監督は『ゼロ・グラビティ』でオスカーを獲得したアルフォンソ・キュアロンの息子、ホナ ス自身、『ゼロ~』の脚本を父キュアロンともに共同執筆している。プロデューサーはアルフォンソの弟、いわばキュアロン一家の才能が結集した作品。かつ、主演のガエル・ガルシア・ベルナル、彼のことは今更、紹介するまでもないが、アルフォンソの代表作の一つ『天国の口、終わりの楽園』にリアリティを与えた若き才能だ。映画的スケールでいえば出演者も少なく、ほぼオールロケ、取り立ててセットも建造物もいらない不毛の砂漠での撮影である。
 原題は、DESIERTO。砂漠、である。日を遮る樹木もない乾ききった不毛の大地だ。メキシコ側から米国へより多くの収入を得よ うと不法越境するメキシコ人がポリ容器のなかに水を満杯にし、わずかな食糧だけを背に、命を賭して入っていく白濁して乾ききった広漠とした大地。なぜ、そんな危険な場所を越境の地として選ぶかといえば、監視の目も少なく、そして国境を隔ている高い壁もないからだ。米国側からすれば、そんな危険な場所を選ぶ越境者は少ないと放置しているともいえるが、トランプ大統領は、そんな砂漠にも壁を建てると宣言したのだ。
 映画は、コヨーテと呼ばれる越境を導くガイドに連れられて旅するメキシコ人男女十数名。国境の鉄条網をこじ開けて簡単に越境はできた。しかし、そうした監視に手薄な場所は、不法越境者たちが自分たちの仕事を奪い、米国文化を毀損すると考える白人たちが自警団を組織したり、あるいは 一匹オオカミのように越境者狩りを身勝手な“使命感”で行なう男たち、あるいはかつて兵士だった男たちがスリルを求めてスナイパーとなるリアリティの場でもある。そんな連中が徘徊するところなのだ。
 映画は、その呑んだくれの白人男サム(ジェフリー・ディーン・モーガン)が無抵抗の越境者をスナイパーのように打ち殺してゆく。そのサムの銃口をかわしながら、命がけの機知を働かせて、最後まで逃げおおせたのがモイセス(ガエル・ガルシア)と、若い女アデラ(アロンドラ・イダルゴ)。映画はその三人が砂まみれとなって織りなす愛憎劇だ。アデラを演じたイダルゴもまたメキシコでは良く知られら女優。
 サムに追走されるモイセスとアデラは、砂漠に生きるガラガラ蛇、棘が密集するサボンテンなどを生かして危機を乗り越える。そのあたりのアイデアはなかなか巧みに描かれている。映画は、幸運にも助かったのはモイセスだけと暗示される。サムは自業の果て、砂漠のなかで枯死するだろうと予感させ てスクリーンから消える。
 筋立ては米国南部でかつて盛んに制作された逃亡者と追跡者の話だが、そこに米墨国境を敷くことによって、象徴化される先進国と途上国の差異、そのズレが生む悲劇は、日本には入ってこないが、メキシコにはノルティーニョ物と呼ばれる表現分野のなかで長年、繰り返されている主題である。まず音楽の世界では、国境めぐる悲劇、国境を舞台にした麻薬密売組織の暗闘などを歌うカテゴリーがあって、形式的にコリードと呼ばれる俗謡だが、これを現代風のグルペーラの演奏様式によって歌われるポップスは定番なのだ。ときどき、米国映画のなかでもメキシコ北部のランドマークとして登場する。そして、国境地帯を舞台に低予算のアクション映画が制作されている。本作もそれに準じた形式だが、そこはキュアロン一家の仕 事で、ガエル・ガルシアが主演することによって、その映画の主旨とするところは米国国民に、いまある現実、人間の悲劇としての国境に視線を向かせる効果があっただろう。
 オバマ前政権が必死に銃規制を法文化しようとして果たせなかったことの悲劇が、こうして警察の力が及ばないとことで、超法規的、かつ非人道的に繰り返されている、その現実を知らしめる映画ともなっている。しかし、現実は本作が制作された後に、米国有権者はトランプ氏を大統領に選んだ。それもシニカルな現実だ。 
▽2017年3月記。