映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 バレエと映画 2 バリシニコフ主演のバレエ映画『ホワイトナイツ』

バリシニコフ主演のバレエ映画の秀作『ホワイトナイツ』
そして、ヴィソツキーの歌 
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 舞踊を主題にした映画を観る批評の視点はひとつしかない。クラシックであろうがモダンであろうが、フラメンコでも日本舞踊も同じ、インド舞踊もしかり……。描かれる舞踊が借り衣装のままか、釣り紐がいくども肌の色に染められているかどうかの違いだ。
 その意味では先に批評した映画『ブラックスワン』は駄作である。その理由は「バレエと映画1」を読んでもらえば了解できるだろう。その批評のなかで少し触れたミハイル・バリシニコフ主演の映画『ホワイトナイツ』を約30年ぶりに見直した。1985年の制作で翌年、日本で公開されているのでスクリーンで観ている。その時に感心したことが、それほど退色せずに印象された。
 ソ連解体までまだ5年以上の歳月がある時点で制作されている。初見の印象は「そうとう意図的な反ソ映画」というものだったし、そう今まで記憶されていた。当時、ソ連では“禁じられた歌”であったヴィソツキーの歌でバリシニコフは振付けしている。これでバリシニコフはソ連共産党独裁という政治形態を崩さない限り永遠に生れ故郷には戻れないだろうと思った。その意味ではバリシニコフ覚悟の映画である。
 ちなみにバリシニコフはバルト三国のひとつでソ連解体後、いち早く独立宣言をした国のひとつラトビア共和国の出身だ。ラトビア、そしてリトアニアエストニアバルト三国はいち早くFIFA(国際サッカー連盟)に加盟するなどいち早くクレムリンの支配から逃れた。公用語としてロシア語を押し付けられながらも、けっして民俗伝統を捨てずに世代を超えて遺贈していったラトビア及びバルト三国、その地から出た亡命者バリシニコフのアイディティティを想う。
 バリシニコフは本作の前、77年に『愛と喝采の日々』でダンサー役としてベッドシーンもある俳優としてスクリーン・デビューしている。この映画もバレエ映画の秀作だ。『ブラックスワン』もそうだが、何故か女性を主人公にしたバレエ映画はクラシック・バレエに偏重する傾向があり、男性を主人公にすえると創作舞踊に傾斜する傾向がある。古典が女性美追求の要素が強いため、映画で男性ダンサーの内面を表象化するには駒が少なく必然的に創作される傾向が強いようだ。
『ホワイトナイツ』は冷戦時代の産物だ。政治亡命を主題としているドラマにおけるバレエだから古典から範を求めることはできずに創作モノに語らせることになった。また、助演のグレゴリー・ハインズがタップダンスの名手であり、ダンサーから俳優に転身した才能であってみれば、ハインズの魅力も引き出すためにもバリシニコフの豊かな創造性はあたらしい表現を求めずにはいられなかった。
ハインズが“ニグロ”としてのおいたちをタップダンスで語るシーンは秀逸だ。そして、彼がいまはシベリアの寒村でしがない“旅芸人”として踊っているのは、米国軍から脱走してソ連邦に脱走したためである。

 世界的なダンサー役として登場するバリシニコフは、亡命後の公演旅行の途上、欧州から東京へ向かう旅客機がシベリア上空でエンジン・トラブルを起こす。飛行機はシベリアソ連空軍の秘密基地に緊急着陸する。そして、バリシニコフ役のダンサーは“政治犯”として囚われの身になってしまう。そのバリシニコフとハインズがふたたび西側へ脱出するというドラマである。
 立て筋が「政治」の重さと緊張でしまっており、その枝葉の部分でバリシニコフとハインズのダンスが適宜、それも取ってつけたようなところもなく流露するのは演出・演技の見事な呼応だろう。
 しかし、本作を観終わった後、筆者がいちばん望んだのはヴィソツキーの歌だった。バリシニコフはソ連邦解体の歴史的瞬間をみたが、ヴォィソツキーはそれを知らずに夭折した。けれど、彼の野太い自作の歌はいまも真実の自由を希求するロシア市民の胸のなかに生きているはずだ。いま、ロシアではプーチン“独裁”を打倒するため街頭に出てきた市民が何十万もいる。そんな市民たちの胸に怒りの火を点火したのはヴィソツキーの魂だと思う。バリシニコフが還れないロシアのかぼそい自由の窓から届けられたヴィソツキーの歌で踊ろうと思った心根に通底するものだ。