映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 ラテンアメリカの映画 9 薄汚れたグリンゴを演じたジョニー・デップ 米国自治領プエルトリコへの問い 映画『ラム・ダイアリー』 ブルース・ロビンソン監督

 映画『ラム・ダイアリー』 ブルース・ロビンソン監督
1009520_01.jpgプエルトリコラム酒に浸りきった日々を過ごす情けなくも薄汚れたジャーナリストの端くれ男ポール・ケンプ(ジョニー・デップ)の蘇生物語。

 今日のプエルトリコ自治政府は破産政府である。ワシントン政府の補助がなければやっていけないカリブの島国だが、ここには米国からの独立を願望する島民が少なからず存在する。そして、独立はしたいが、米国の自治領であることによって経済的恩恵を受けていると信じる現実派が島民の過半数を占め、米国への融合、州となること拒み自治領という地位を選んでいる。

 映画に描かれる時代は1960年、若きジョン・F・ケネディが、ニクソン候補を退けて米国大統領に当選した年だ。プエルトリコはといえば保守派のムニョス知事が米国領自治領の主として座っていた時代。1952年、米国は、「プエルトリコを植民地支配している」という世界的批判をかわすため自治権を与えた。冷戦下、米国は足元を固めるために米州機構(OCS)の結束を高める必要から、域内諸国の批判をかわすために自治権を与えたのだ。物語は自治領となって8年目の首都サンファンを舞台に進行する。

 ムニョス知事は米国本土から企業を誘致、工業化を進めたがインフラの未熟な地ではなかなか根付かず、結局、カリブの美しい浜を米国資本のリゾート地として開発し、観光客を誘致、手っ取り早く稼ぐ方向に流れる。土地は収奪され、農漁村で立ちゆかなくなった島民は米国領市民として、職を求めてフロリダやニューヨークに渡っていった。ミュージカルの古典『ウエスト・サイド物語』はそんな時代の貧しいプエルトリコ・コミュニティーの話だった。

 デップが演じる駆け出しの新聞記者ポールは実在の人物。本国で食い詰めた作家志望の青年が、サンファンのローカル英語紙の記者となって、なんとか喰い次ぎ、やがて小説を世に問いたいと夢想している。しかし、くだんの編集部はまったく覇気がない。新聞は売れず、米国資本の企業の広告収入でやっと経営を維持する、いわゆる“御用新聞“。米国資本の工場が、汚染水を海に垂れ流している事実を知っても記事にはできない。そういうたぐいの新聞だ。

 倦怠と頽廃が重いオリとなってはびこり腐臭をただよわせている。そうした編集部の光景、ポールの仮寓先の場面などはいずれも色調暗く不快な感じを与える。それに反して浜の美しいこと、緑の鮮やかなこと、澄んだ大気の拡がりは素晴らしい。対比があざやかだ。つまり米国人が登場する場面は暗く、プエルトリコの自然は湿度のあかるいハイトーンの色調となる。

 デップに与えられた役は、そうした頽廃の気配のなか、どうにか初心を忘れず平衡感覚維持し、米国資本の不正を暴く記事を書きジャーナリストとしてのプライドを保ちたいというものだが、結局、それも果たせず本土へ撤退するというていたらく。しかし、その反ヒーロー的な主人公こそ、ラテン諸国でのグリンゴのいやらしさ、あくどさ、浅ましさを体現するものだ、と描かれている。デップはそんな米国人のいやらしさを好演する。

 「パイレーツ・カリビアン」などでかっこいいデップを見なれたファンにはあんまり見たくない姿だろう。そうカリブ海コロンブス以来、無法者たちの荒稼ぎの場であった。武勇のパイレーツも所詮、海賊、泥棒、人殺しだ。その泥棒たちは、やがて巧妙に自己保身を謀り、ビジネススーツをスキなく着こなし、パソコンのキーを叩きながら海賊以上に収奪しているのが今日的光景なのだ。

 美しい浜を開発しようと米国人たちが下見するシーンがある。その後背地に米軍の射爆場があって、空気を切り裂いて砲弾が飛び交っている。そう、プエルトリコは中米パナマの広大な米軍基地を失った現在、ラテンアメリカにおける最大の米軍演習場になった。この小さな島国は、その美しい自然とともに沖縄とよく対比される。そして、ともに地に根を張った民衆の反基地闘争が存在する。プエルトリコの群衆が“御用新聞”の社屋にデモを仕掛けてくるシーンなどもちゃんと用意されていて、それなりの時事的臨場感も創られている。この自治領の矛盾を知るにはよき資料かも知れない。

プエルトリコは米国自治領であるが、民族文化はラテンアメリカに連動する。住民の大半はいまでもカトリック信徒は過半数を占める。そして、経済的な実益を考慮しなければ、住民は米国からの独立を目指すという意味で、「ラテンアメリカの映画」のカテゴリーで語りたいと思った。

 2011年制作・米国映画