映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 炭鉱を描く 2 旧作4作まとめて 『フラガール』『黒い土の少女』『家族』『ブラス!』

炭鉱と映画 
 日本の石炭需要は変わらず、しかし、炭鉱は閉山されて久しい
  
 炭鉱をえがいた映画に傑作が多いのはなぜだろう。
 福島いわきの常磐炭鉱の閉山にまつわるエピソードを良質な娯楽映画に仕立てた『フラガール』(李相日監督)がヒットし、国内の映画賞をゴッソリ手繰ってしまった。ひさしぶりに「汗」を感じた日本映画だった。
 世は、高度経済成長期だが、炭鉱は斜陽産業の象徴。戦後史はその時代を快活ないろどりを添えて語るが、日本人みんなが皆、その恩恵にあずかったわけではない。取り残された人たちもまた多かった。『フラガール』は取り残された人たちの逆転満塁さよならホームランであったから、感動させたのだ。
 フらガール
炭鉱文化の音楽といえば「つ~きが出た出た、月が出ぇ~た」の「炭鉱節」に象徴されるような時代に、いきなりハワイアン(?)であるから炭住で暮す人たちには天から降って沸いたような奇々怪々な企画であった、と想像する。映画はそのあたりもよく描写されている。
 炭鉱閉山は鉱脈の枯渇を意味しない。
 日本の炭鉱閉山は、エネルギー変換にともなう政治的措置であった。
 いまも掘れば石炭は潤沢に出る。火力の強い優良炭がそのまま眠っている。
 二十年ほどまえ長崎沖に浮かぶ炭鉱の島を取材したことがある。軍艦島が指呼の間に眺望できる小さな島だ。その島の労働組合の活動家が、「掘ればまだ幾らでも出る。ここから出る石炭は火力の強い良質なものでしてね、そのままだと炉を傷めてしまうから、火力の弱い石炭をわざわざ混ぜて使うんだ」と自慢げに言っていた。自慢は、閉山にともなう無残千万のくやしさ、その裏返しだったと思う。
 常磐炭鉱は本州最大の炭鉱として東京への地の利も良い。そばには日立製作所の工場群が控えているという好条件であったにも関わらず縮小、閉山に追い込まれた。むろん、鉱脈が費えたわけではない。エネルギー政策の変換と、安価な輸入炭の攻勢に負けたのだ。掘るより輸入したほうがはるかに廉価だから、日本の炭鉱は捨てられた。
 日本で石炭が使われなくなったわけではない。石炭の需要は「つ~きが出た出た」の時代と変わらずある。現にいまでも年間約一億八〇〇〇万トン(2004年実績)も輸入しているのだ。そして、その量は日本でもじゅうぶん産出できる。しかし、価格競争に負けた。足元を掘るより遠路はるばる海を越えてくる石炭の方が安いのだ。
 中国から廉価な石炭を買っている。その中国の炭鉱で事故が頻発している。人命軽視としかいいようのない安全管理の杜撰さが原因だ。三七八六人、これが昨年、中国の炭鉱事故で死亡した人の数だ。国家安全生産監督管理総局が発表した。その数値の発表に添えて、「前年比二〇・二%減」と書き、安全管理の面で大きな実績をあげたと誇ったのである! 〇六年には三九〇〇人近い犠牲者があったということだ。大変な数だが、事情通に言わせると、実情はもっとむごいともいう。貧困層が家で使うための盗掘がなかば公然と認められているような国だ、そこでは安全面は無視されているので事故が頻発しているというのだ。そして、その犠牲者の数は把握されない。
 日本の炭鉱も事故は多かったが、中国の事故はその比ではないようだ。その石炭を日本は大量に買っている。

 韓国から『黒い土の少女』という映画がやってきた。『フラガール』につぐ昨年、二本目の炭鉱映画だった。閉山を見据えて炭住がつぎつぎと潰されてゆく時代をいま韓国は迎えている。
 「最盛期には韓国だけでも百カ所の炭鉱が操業していました。けれど、エネルギー政策の転換で現在はたった五ヵ所を残すだけです。それも早晩、閉山されるでしょう。坑道を利用したカジノ計画というのがありますね。映画はそんな閉山を目前に控えた炭鉱を舞台にしています」とチョン・スイル監督はいった。『フラガール』の監督も新潟出身の在日コリアン三世であった。なにかの因縁も感じるが、それは追究しないことにしよう。
 韓国には現在、原子力発電所が二〇ヵ所あり、主要電力を生産している。その比率は西ヨーロッパにおける最大の原発立国フランスに並ぶだろう。
 原発に傾斜した韓国のエネルギー政策は、必然的に燃料としてのウランの確保は国策となった。世界第二のウラン鉱脈がある中央アジアカザフスタンに外交攻勢を掛けている。ウラン鉱山の開発に資金投下しようとしていて、これを追って日本も二〇〇六年夏に小泉元首相がカザフスタン入りし、経済援助の見返りにウランの確保に乗り出した。
 韓国で現在も操業をつづける炭鉱もふくめ、かつて百ヵ所を数えたという炭鉱はすべて日本の植民地時代に採鉱がはじまったところだ。つまり、日本軍の軍刀のしたで強制労働を強いられ、命をおとした多くの朝鮮人労働者たちの怨念の地でもあった。戦中、常磐炭鉱ばかりか全国の炭鉱に多くの朝鮮人が強制労働を強いられていたことも忘れてはいけない。不慮の死をとげた若者も多かっただろう。常磐炭鉱史は、その時代の章で、「朝鮮人労働者の移入」と記載し、犯罪性を隠蔽するが、そんな言葉で語れるような穏便なものではないことは歴史が明らかにしている。
 『黒い土の少女』は、筆者の私的な〈炭鉱映画史〉のなかでも特筆される傑作であった。
 黒い土の少女
9歳のヨンリムという少女が主役であった。長年、坑道ではたらきつづけたためじん肺症となった父へドンは解雇された。労災認定を受け補償金を出すように労働組合を通じて、運動をつづけているがラチがあかない。手元には、社宅から立ち退くことを条件に手にした虎の子の退去手当があるだけ。それを資金に現状打破の思いもあり、セコハンの小型貨物トラックを買って魚の露店商をはじめる。しかし、素人商法なかなかうまくいかない。そうこうするうちに車が事故を起こし、廃業に追いやられる。万策尽きた父は、やがて酒に溺れる。絵に描いたいたような貧困譚だが、語り口の誠実さもあってリアリティがあった。
 子どもは逃避できない。子どもは親が作り出す環境を否応なく強いられ、染まらずえない。それに抵抗するのは辛いことだ。幼いヨンリムの薄い肩に家族の〈命〉がのしかかる。兄は知的障害者。自分の身の回りの世話もできない兄にとっては妹は〈母〉でもある。母親は、生活苦にたえ切れず出奔したらしい。ヨンリムは兄を保護し、失職した父をはげましつづける。生きるために万引きもする。食事の世話から洗濯、家事一切みんなヨンリムに押しつけられる。父もそれを知っている、不憫に思う。しかし、どうすることもできない焦燥が酒を引き寄せる。やがて、米びつの底がつく。ヨンリムはふたつの決断に迫られる。それも涙をみせず、冷静に行動しなければいけない。まず、兄をバスに乗せ町の施設のなかに「捨てる」。次は、父だが……それは、書くまい。
 炭鉱の閉山でいやおうなく生き方をギアチェンジさせらる労働者、とその家族の葛藤をえがいた映画といってしまえば簡単だが、悲劇はあくまで個別性である。映画はそれを訴える。

 山田洋次監督の秀作に『家族』という映画がある。
 家族
九州の炭鉱が閉山となり北海道の炭鉱に一家をあげて日本列島を北上する家族の旅の情景をつづった、いま風にいえばロードムービー。ときは、大阪万博の真っ最中。〈太陽の塔〉の下で浮かれる繁栄と、老いた親をかばいながら未知の土地へいそぐ小さな家族の苦痛は、当時の日本の明と暗を見事に対比した傑作だった。
 英国で産業革命がはじまって以来、石炭は“黒いダイヤ”といわれ経済活動をささえるエネルギーとして世界を動かしてきた。それが石油にとって替わられた時、多くの労働者の運命が狂わされた。
 労働集約型の産業であったから、大量に離職させられた労働者の処遇は大きな社会問題となった。英国の繁栄を支えたのも炭鉱だったが、歴代政権の労働者優遇措置のなかで国際的な競争力を失い、エネルギー政策の転換では日本にも遅れを取った。抜本的な改革が迫られたとき、登場したのが右派のサッチャー首相だった。
 英国の炭鉱も片端から見捨てられた。失業者問題は深刻化した。ゆるやかな政策転換と、急激な変換とでは受け取る側の負荷はまるでちがう。英国で炭鉱閉山を背景にした映画が次つぎと登場した。それだけ労働者が受けた負荷が大きかったからだ。
 ブラス
ブラス!』は伝統ある炭鉱のブラスバンドが閉山とともに解散する話であった。息子のためにスト破りをする炭鉱夫を描く『リトル・ダンサー』。そして、エネルギー政策の転換はさまざな職域にも波及した。
 かつての自動車の都といわれたデトロイトも荒廃したように、英国の工場地帯も衰退し、おびただしい鉄屑を放出した。職を失った未熟練労働者たちは行き場をうしなった。そんなさえない男たちが、起死回生と男性ストリッパーに挑戦する『フィルモンティー』という佳作が出てきた。サッカー発祥の地らしく失業者問題をサッカーの話題に溶け込ませた映画もあった。英国の炭鉱閉山は日本以上に深刻な問題であったかも知れない。
 フランスが1999年、ポーランドの映画人と協働して制作した『赤と黒の接吻』(エリック・パルピエ監督)も忘れがたい重厚な炭鉱映画だった。1930年代、経済的疲弊にあえぐポーランドから多くの出稼ぎ労働者がフランスの炭鉱で最下層・低賃金で働いていた。そのポーランド労働者が待遇改善を求めて争議に入る。その一連の推移をポーランド労働者の男性と、フランス人女性とのあいだで芽生えた民族差別を乗り越えたラブストーリーを通して描きだしたものだ。エキストラ1万4000人を投入したとかで争議シーンの量感にはリアリティがあった。こうした映画を見ているとフランス優越主義としかいいようのない文化的驕りは、植民地を支える精神的な基盤とも思うが、同じ欧州人、カトリック教徒にも差別感を強く抱いていたという現実をしるとき、この映画で描かれてすぐ欧州大陸を席巻することになるナチ・ドイツのユダヤ民族への抑圧・抹殺計画にフランスが積極的に加担していった事実をうべなるかなと思わすものだ。

 常磐炭鉱がハワイアンセンターに衣更えした時期、日本のテレビは、すでにモノクロ時代からカラーテレビの時代を迎える端境期に入っていた。一九五八年(昭和三十三年)、日本映画は産業としてピークを迎えた。全国の映画館数は約7400、制作本数は約500本、そして観客動員数は一一億二七〇〇万に達した。それから、わずか七年で急激に衰退した。2千数百館が閉館し、観客は三分の一まで縮小したのだった。その時代を歴史は高度経済成長期と語る。