映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 バレエと映画 7 これから公開 『ポリーナ、私を踊る』

映画『ポリーナ、私を踊る』 

   ヴァレリーミュラー&アンジュラン・プジョカージュ監督f:id:cafelatina:20171008211037j:plain

 業界内発言になるような気がするが、あえて本作がバレエ映画として大変良くできている作品だし、多くの人に観てもらいたいので少々、苦言を頭にふっておく。通勤・通学前に雨を少々、降らして、家を出る頃には薄日、目的地に到達頃には晴天させたい、と思う。
 ジョージア(グルジア)人でクラシックダンサーとしての才能を見出されボリショイ・バレエ団に入団できた才能と主人公が設定されているわけだから、少しバレエ事情に詳しい日本人なら誰だってニーナ・アナニアシヴィリを思い出す。現在、第一線を退きジョージアの国立バレエ団の総監督職にあると思うが、ボリショイ時代のプリマとして一世を風靡し、日本での公演を重ねたコーカサス地方を代表するニーナのファンはいまも健在だ。そのニーナを、たとえば、「ニーナ・アナニアシヴィリを思わす新星の登場」とか、映画の主人公ポリーナを重ねて宣伝すれば、販路が拡大するに違いないからだ。ちなみに、かくゆう筆者もニーナのファンである。いまもボリショイで『ドン・キフォーテ』でキトリを舞った清新、華麗な印象は建材だ。<
 
 さて本題。踊れて演技できる才能がほんとうに出てきた、と思った。その意味ではロシアには眠れる豊かな才能の鉱脈が存在していることが実感できる。その才能とは、本作でジョージア人の父とシベリア出身の母、モスクワに在住していれば貧しい労働者階級の典型となるが、その間に生まれたポリーナ。父親がヤバい仕事にも手を出し、ギャングの使い走りに脅かされているような家庭だ。そんなすさんだ生活、ポリーナもバレエのレッスンを休んで母の仕事を手伝うこともある。そんな辛酸をなめながらも自己実現に向けて走る、そんなサクセスストーリー。そのポリーナを演じたアナスタシア・シェフツォワが素晴らしい。その名の通り、アナスタシアはロシア人である。数千人のオーデションから選ばれたという才能というに偽りはない。サクトペテルブルグの名門マリンスキー劇場に所属するダンサーであった。しかし、スターではなかっ た。いわば難関のマリンスキーに入団できたが、こんごどうなるか分からないという時点で本作の主役を獲得した。まるで、劇中のポリーナと重なる。難関のボリショイには入団できたが将来が保障されているわけではない、という立ち位置だから。 <
 ソ連邦時代のバレエ界であれば才能が認められればデビュー前からかなり優遇される。かつてニーナも、フェギアスケートの選手より、クラシックバレエに適性があると見いだされボリショイに入団できた才能だった。そういうシステムがかつてあったが、現在、ボリショイがジョージアの少女から才能を早期発見するというシステムは崩壊している。
 市場経済下におかれた現在のロシア・バレエ界というのも本筋ではないが良く描かれている。そんなポリーナがボリショイを捨て、フランスに赴く。金のためだ。そういう思いに至らせるのも両親の経済的苦境を肌でしるからだ。その辺りも少々、紋切型だがよく描かれている。
 しかし、フランスやベルギーでダンサーとして働こうとするが現実は生易しくはない。生活苦からバアのウェイトレスとして働くことも余儀なくされる。そんなある日、あたらしいダンスを創造しようというコンテンポラリーダンサーたちの練習光景を目にし、誘われるまま、感性にうながされるままに踊る。クラシックバレエで長年、鍛えられた優美さと気品、そして身体能力の高さは、その場の若者たちを圧倒する存在感をみせる。やがて、自分で振付け、ステージへ。といったよくあるパターンだが、クラシックバレエもきちんとこなせて、かつコンテポラリーも遜色なく踊れる、かつ内に激しさを秘め、外見は気品さを失わないという難役をこなした新人アナスタシアに拍手を送りたい。<
 本物のクラシックバレエを魅せて演技もできる主人公をこなした、ということではロシアからニューヨークに亡命したミハイル・バリシニコフがいるが、女性となると、映画で主役を張れ、演技力も遜色ない、という存在はモルダビアの監督エミリー・ロチャーヌが1984年、英国の資金を得て制作した『アンナ・パブロワ』で主人公を演じたガリ―ナ・ベリャーエワぐらいしか知らない。マイヤ・プリセツスカヤの自伝のなかで映画に出たことが記されているが、映画として3級品であったのかソ連の外にはでなかったようだ。伝説のプリマを演じたベリャーエワのその後の活動はまったくわからない。ソ連バレエ界にあっては飛躍はなかったのだろう、女優としても。その意味では、新しい才能アナスタシア には大いに奮闘していただきたい。
 本作の成功で周りはほっておかないだろうが、御本人は映画を通してコレオグラファーの魅力に惹かれたと言っているので、こんごスクリーンで彼女を観られるかどうか少々、不安で ある。
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 フランスに飛んだポリーヌがまず最初にドアを叩くバレエ団のコレオグラファー役をジュリエット・ピノシュが演じているのだが、そのレッスンの場で自ら、「こんなふうに表現して」と舞うシーンがある。それが実に自然で説得力がある。実際にステージで踊っていることを知り、名女優として押しも押されぬ存在であるピノシュが自己表現の拡張を目指し、バレエに挑戦していることに敬服した。
 また本作を、振付が生業のアンジュラン・プレルジョカージュと、ドキュメンタリー畑から出てきたヴァレリー・ミューラーの共同で監督を務めている。バレエ映画においてはバレエの華が劇中、散りばめられてこそ魅力がなある。その華を惹きだすにはバレエに精通した演出家が必要だ。演技シーンとダンスシーンとの融合はなかなか至難なのだ。それに成功しているのは、目指す方向を共有した二人の監督の力だろう。<
 かつて、バリシニコフを擁して成功した『愛と喝采の日々』を監督したハーバード・ロスが同作で成功したのも、ロス自身がアメリカン・バレエ・シアターでダンサー、振付師であった経歴がモノをいっている。
 しかし、つくづく思う。クラックバレエを介在させて一級の映画を作ろうとする限り、いまも昔もロシア人、あるいはロシア出身の才能を借りないとできないという事実である。ロシアバレエの底力は抜きんでいている。ロシア文学の普遍性が革命期に著しく損なわれた現在、ロシア文化最大の輸出産物はバレエであるだろう。
 ▼『ポリーヌ、私を踊る』 10月後半、東京地区、先行ロードショー。