映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

これから公開
 映画『ネルーダ  大いなる愛の逃亡者』 パブロ・ラライン監督

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  かつて、イタリアで亡命の日々を送っていた詩人パブロ・ネルーダと郵便配達青年のささやかな友情を描いた『イル・ポスティーノ』(1994)という佳作があった。それは素直にネルーダへの共感を生み出すものだったが、本作はチリの映画人が造った練った作品でありながら、本作におけるネルーダ像は素直に首肯できかなかった。

 スクリーンのネルーダ(ルイス・ニェッコ)から、筆者は軽侮、尊大な印象しか受けなかった。むしろ、本作は、ネルーダを逮捕することを時の大統領から直接指示された警部(ガエル・ガルシア・べナル)の映画ではないかと思える。
 ラテンアメリカ映画界では絶大なる人気を誇るガエ ルを起用したことでネルーダの出番が多くても、そのネルーダに影のように付きまとう「労働者」としての警部の存在によりリアリティがあった。
 考えてもみよ、詩人にとって亡命は苦難ではあっても創造者によって「苦難」ではなかった。それは創作の泉である。逃避行そのものが詩の泉である。ショパンみよ、ジャン・ジュネをみよ、である。ソルジェニーツィン、と栄光の名を数えあげたら切がないくらいだ。
 映画のネルーダから逃亡者の悲哀感が醸し出されていなのはそういうことで、それは否定するものではないが、俳優がそうした心性を理解しているとは思えなかった。すでに当時のネルーダはラテンアメリカの歴史、自然、民衆を叙事する桂冠詩人としての名声があり、チリ共産党の象徴的存在として絶大なる民衆の支持があり、逃避行の行く先々で便宜が与えられてゆく。むしろ、独裁政権の走狗となってネルーダを追う刑事の苦難、「闇」の方が深刻である。
 逃避行において相まみえることなく精神的な疎通が生じてゆくという錯綜した感情を描いていることでは秀逸な 映画なのだと思う。その意味では「闇」の象徴を体現するガエルの演技の方が優れている。
 ネルーダの追う若き警部は雪原で非業の死を迎え、闇に葬られる。亡命地、フランスで、ピカソからじきじきに英雄として称えられるネルーダはさらに名声をいやましてゆく・・・・。そういうことを描いた作品であって、ネルーダは象徴的主人公ではあっても、映画のコアな部分を支配するのは無名の刑事が主人公なのである。
▽2016年・チリ映画。108分。11月より公開。