映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

これから公開  映画の地球 『ル・コルビュジェとアイリーン ~追憶のヴィラ』メアリー・マクガキアン監督

ル・コルビュジェとアイリーン ~追憶のヴィラ』メアリー・マクガキアン監督

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 ル・コルビュジェにしてもアイリーンしても劇映画のなかで描かれるのをみるのはじめてだ。その意味では映像化を試みたスタッフ、キャッストに敬意を表したいし、20世紀を代表するインテリア・デザイナー、アイリーン・グレイの仕事と思想を理解する上で好古の資料を提出してくれていると思う。そう、本作はアイリーンの映画であって、ル・コルビュジェは添え物といっていい。
 しかし、日本の配給・宣伝スタッフは、本作で利潤を得ようと苦心してル・コルビュジェの名を巻頭に出した。まるでル・コルビュジェが主人公のように。けれどアイリーンの映画であ る。おそらく、上野公園の国立西洋美術館ル・コルビュジェの作品として世界文化遺産に登録されて間もないという時機を横目にくだんのタイトルを翻案したのだろう。それを批判はしないが、原題は、「願望の対価」といった大変、哲学的なもので。これでは客は呼べないと判断したのも了解できる。
 日本ではル・コルビュジェの関係書はたくさん出ている。しかし、アイリーンとなるとたった一冊あるきりだ。それも全貌を懇切に紹介したとは思えない光琳社出版から出た薄い20世紀デザイナー・シリーズの一巻があるのみだ。それも少部数で現在は古書としてしか出回っていないことを思えば、宣伝塔の役割をより高名なル・コルビュジェの名で立てないと致し方ないと判断したのだろう。
 光琳社の本の表紙は、サザ ビーかクリスティーズであったか、20世紀に造られた家具として最高額で落札された椅子がレイアウトされている。
 そして、映画はその椅子が落札されるオークション会場の場からはじまる。映画は、これほどの金額で落札された椅子を作り上げた独創的なインテリア・デザイナーだったとまず宣明する。アイリーンを知らない観客も、高額落札をみて、「ほう、それほどのデザイナーか」と感心する。そういう仕掛けを作って、映画は語りはじめるのだ。少々、あざとい手法だが、それも本作では有りか、と思う。
 しかし、物語の眼目は、アイリーンと当時、愛人であり仕事のパートナーであった建築ジャーナリストのジャン・バドヴィッチとともに住み、ともに独立して仕事をする家として建てられた別荘「E1027」にまつわるエピソードが主題だ。
 その別荘は一時期、ル・コルビュジェの作品だと信じられて時期があ った。それほどル・コルビュジェが主張する建築理念を象徴化したような作品、建物であったからだ。しかし、事実はアイリーンがル・コルビュジェの思想に影響されながら独自に造形化したものだった。当時、ル・コルビュジェは自分の思想を実際の住居としてはひとつも実現していなかった。アイリーンが先行して実現したことに嫉妬していたはずだと映画は主張する。だから、その別荘にル・コルビュジェは自分の手が入っているのだと主張するかのようにアイリーンの嗜好にそぐわない壁画を描き込む。それはアイリーンのプライドを逆なでする行為であった。・・・ということが語られている作品である。サブタイトルの「ヴィラ」とは、そんな逸話をもつ「E1027」のことである。
 20世紀の建築史、デザイン史上におけるふたりの才能は尊重はすれるけど、西洋美術館をみて、「あれが世界文化遺産 」というなら、わが日本にはいくらだって後世に残すべき優れた匠たちの手わざを象徴する古建築が日本列島各地に残っていると言いたくなる。原型に近い古建築すべてを、文化遺産にしてほしいと思うぐらいで、今更ながらにユネスコの価値基準の西欧水準に鼻白む。映画にそれなりの理解をもって接しながらも、何か釈然としない私のなかの純日本人としての反発があった。むろん、ル・コルビュジェの建築思想が20世紀という時代を象徴するように世界大として広がったことの優れた例証として西洋美術館があるというのはわかるが、しかし、同美術館所蔵の一群のロダンの彫刻、ギャラリーのなかの多くの絵画より優れているとはいささかも思えない。
 ▽10月、東京・渋谷Bunamuraル・シネマで公開。