映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 ラテンアメリカの映画 7   米墨国境地帯は映画の宝庫 『ノー・エスケープ ~自由への国境』 ホナス・キュアロン監督

映画『ノー・エスケープ ~自由への国境』 ホナス・キュアロン監督

f:id:cafelatina:20170819090503j:plain 2015年の制作だから、まだトランプ大統領が共和党の正式候補にもなっていない時期の映画だ。しかし、米墨国境地帯をめぐる状況が大きく変化することを予見したような映画が撮られたということでは暗示的だし、日本での公開が実現したのもトランプ効果であることは間違いない。

 

 本作には小品にも関わらず2013年、オスカーを複数獲得した『ゼロ・グラビティ』のスタッフが全面的に投入されていることでも、メキシコ側からみた国境問題に対する認識度の高さをうかがわせる。ハリウッドで成果を上げたメキシコ人スタッフが故郷を振り返り、やはり撮るべき映画を制作しなければいけない、と使命感のようなものを感じた、と思わせる作品となっている。
 監督は『ゼロ・グラビティ』でオスカーを獲得したアルフォンソ・キュアロンの息子、ホナ ス自身、『ゼロ~』の脚本を父キュアロンともに共同執筆している。プロデューサーはアルフォンソの弟、いわばキュアロン一家の才能が結集した作品。かつ、主演のガエル・ガルシア・ベルナル、彼のことは今更、紹介するまでもないが、アルフォンソの代表作の一つ『天国の口、終わりの楽園』にリアリティを与えた若き才能だ。映画的スケールでいえば出演者も少なく、ほぼオールロケ、取り立ててセットも建造物もいらない不毛の砂漠での撮影である。
 原題は、DESIERTO。砂漠、である。日を遮る樹木もない乾ききった不毛の大地だ。メキシコ側から米国へより多くの収入を得よ うと不法越境するメキシコ人がポリ容器のなかに水を満杯にし、わずかな食糧だけを背に、命を賭して入っていく白濁して乾ききった広漠とした大地。なぜ、そんな危険な場所を越境の地として選ぶかといえば、監視の目も少なく、そして国境を隔ている高い壁もないからだ。米国側からすれば、そんな危険な場所を選ぶ越境者は少ないと放置しているともいえるが、トランプ大統領は、そんな砂漠にも壁を建てると宣言したのだ。
 映画は、コヨーテと呼ばれる越境を導くガイドに連れられて旅するメキシコ人男女十数名。国境の鉄条網をこじ開けて簡単に越境はできた。しかし、そうした監視に手薄な場所は、不法越境者たちが自分たちの仕事を奪い、米国文化を毀損すると考える白人たちが自警団を組織したり、あるいは 一匹オオカミのように越境者狩りを身勝手な“使命感”で行なう男たち、あるいはかつて兵士だった男たちがスリルを求めてスナイパーとなるリアリティの場でもある。そんな連中が徘徊するところなのだ。
 映画は、その呑んだくれの白人男サム(ジェフリー・ディーン・モーガン)が無抵抗の越境者をスナイパーのように打ち殺してゆく。そのサムの銃口をかわしながら、命がけの機知を働かせて、最後まで逃げおおせたのがモイセス(ガエル・ガルシア)と、若い女アデラ(アロンドラ・イダルゴ)。映画はその三人が砂まみれとなって織りなす愛憎劇だ。アデラを演じたイダルゴもまたメキシコでは良く知られら女優。
 サムに追走されるモイセスとアデラは、砂漠に生きるガラガラ蛇、棘が密集するサボンテンなどを生かして危機を乗り越える。そのあたりのアイデアはなかなか巧みに描かれている。映画は、幸運にも助かったのはモイセスだけと暗示される。サムは自業の果て、砂漠のなかで枯死するだろうと予感させ てスクリーンから消える。
 筋立ては米国南部でかつて盛んに制作された逃亡者と追跡者の話だが、そこに米墨国境を敷くことによって、象徴化される先進国と途上国の差異、そのズレが生む悲劇は、日本には入ってこないが、メキシコにはノルティーニョ物と呼ばれる表現分野のなかで長年、繰り返されている主題である。まず音楽の世界では、国境めぐる悲劇、国境を舞台にした麻薬密売組織の暗闘などを歌うカテゴリーがあって、形式的にコリードと呼ばれる俗謡だが、これを現代風のグルペーラの演奏様式によって歌われるポップスは定番なのだ。ときどき、米国映画のなかでもメキシコ北部のランドマークとして登場する。そして、国境地帯を舞台に低予算のアクション映画が制作されている。本作もそれに準じた形式だが、そこはキュアロン一家の仕 事で、ガエル・ガルシアが主演することによって、その映画の主旨とするところは米国国民に、いまある現実、人間の悲劇としての国境に視線を向かせる効果があっただろう。
 オバマ前政権が必死に銃規制を法文化しようとして果たせなかったことの悲劇が、こうして警察の力が及ばないとことで、超法規的、かつ非人道的に繰り返されている、その現実を知らしめる映画ともなっている。しかし、現実は本作が制作された後に、米国有権者はトランプ氏を大統領に選んだ。それもシニカルな現実だ。 
▽2017年3月記。