映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 ラテンアメリカの映画 6  モノクロームの美しいコロンビア映画『彷徨える河』 シーロ・ゲーロ監督

コロンビア映画『彷徨える河』 シーロ・ゲーロ監督
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 墨に五彩在り、という。東洋の審美眼を象徴的に要約したものだ。水墨によって森羅万象を描こうとの野心をもった東洋の画工たちは、墨で山なす緑を描き、新緑、盛夏の緑、湿潤な緑とさまざまな抒情を表出した。『彷徨える河』を観ながら筆者はしきりに水墨の世界の神韻を聴いていたのだった。そう本作はモノクローム映画。しかし、熱帯雨林の豪奢な色彩を確かに感じていた。美しい濃淡の輝きにあふれていた。
 アマゾン流域を舞台とする映画はこれまで数多く制作されてきた。アマゾンが放つ色彩の横溢に善く応えるように色彩フィルムに定着されていた。野生の宝庫、緑の地獄といわれる悲劇の場所であったり、征服の拠点であり破壊の現場として。誠実に色彩設計されて撮影されたフィルムもあったが、どこを切り取っても密林の濃密さは写せると安易に撮られたものも多かった。もちろん、カラーフィルムが容易に流通しはじめる前に、モノクロームでアマゾンは撮られているわけだが、当時の撮影者たちはいつもフィルムの限界を嘆いただろう。しかし、節度のない色彩乱舞の時代に本作は意識的にモノクロームで、と選択された。その時、アマゾンの光と影は監督の審美眼を象徴するものになった。

 前置きが長くなった。物語に寄り添おう……河口から遥かに遡った迷路のようなアマゾン支流。20世紀初頭と、それから数十年を経た時代が交錯して描かれるが、文明の機器が入り込んでいない辺境にあっては、しかと時代が判別できる表象物がでてこない。強いていえば人を殺傷する銃器が“文明”の闖入を象徴するものかも知れない。
 欧米社会に知られていない有用の植物などを採集し、あわせて原住民の風俗習慣などを調査するドイツ人民族誌学者と、武器でもって迫害され部族を絶滅に追いやられ、たった独りとなった青年カラマカテとの精神的な交流が描かれる。
 カラマカテは民族の知恵として、薬草の知識を豊富にもっていた。生きんがため先人たちが育んできた叡智の結晶。このカラマカテ青年を演じたニルビオ・トーレスが実に良い。奥アマゾンで農業に従事していたトーレスは外界をほとんど知ることなく、母語のクベオ語のみで生活してきたという。映画でもスペイン語より母語で語るシーンが多い。彼には追われた原住民、博物誌的に観察されることを甘受しないカラマカテどうようの誇りがある。演技ではなく、厳しいアマゾンの自然に生きる膂力をもった誇りある民として。半裸の彼にいっさいの贅肉がない。背筋を伸ばし、無駄ごとをいっさい吐かない戦士の矜持をもつ。

 ドイツ人学者は風土病で重篤の身、それでも先住民出身の彼の助手とともに長年、アマゾン流域で収集した植物標本や資料をカヌーに乗せて支流を経巡っていた。そこで出会ったのがカラマカテ。通訳を通して治療を乞う。最初は治癒を拒否するカラマカテだが、学者の姿にこれまで見てきた白人侵略者とはまったく違う真摯さを感じ、病いを癒す薬草ヤクルナを求め、カヌーに同船し密林の奥深くに分け入ってゆく。このあたりコンラッドの『闇の奥』を思わせるし、必然、F・コッポラの『地獄の黙示録』を想起させる。
 そうしたカラマカテの善意は、やがて民族学者の研究をビジネスとしてみる19世紀以降の経済的な征服者たちによって、アマゾン破壊の根拠を与えることになる。監督は、それを社会批評するのでは、そうした文明の闖入がもたらす荒廃をカヌーの旅のなかに溶かし込んでゆく。
 魂の彷徨……カトリックの密林における歪み、精神の惑乱、倫理の剥奪、密林が強いる不条理な生と死の掟……老いたカラマカテの追想。錯綜した二つの時代は溶け合い、分離できなくなる。
 思索の混迷を防ぐため豊穣な色彩を廃止し、モノクロームで「人間」だけを屹立させようとしたのかと思われてもくる。  2016年9月記
*10月、東京・シアターイメージフォーラムなどで公開。