映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 公開中 フィリピン映画『ローサは密告された』

公開中 フィリピン映画『ローサは密告された』 ブリランテ・メンドーサ監督

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 昨年、フィリピンに誕生したロドリゴ・ドゥテルテ大統領は麻薬密売組織に対して目には目を、と力の行使によって市長時代、地元の治安を目覚ましく改善したことで頂点に上り詰めたポピュリストだ。大衆迎合主義的な手法は時にヒロイズムに陥り、大局を見誤ることも多い。その政策の失敗を糊塗するためにいきなり強権を発動しがちだ。そういう政治家はたいてい第三世界に顕著に現れるものだが、21世紀は先進国でも主役になるようだ。

 人間は歴史に学ぶことを忘れる、否、忌避する存在かも知れない。反知性はポピュリズムの温床だ。米国でトランプ大統領のような政治家が出現するのは、それだけ世界は不安定化に向かっている。

 本作は、ドゥテルテ政権が誕生した後にフィリピンで公開された麻薬絡みの映画として特筆されるだろう。

 報道はドゥテルテ大統領下の麻薬犯罪者に対する容赦ない摘発を少々、スキャンダルに取り上げる。報道もまた視聴者の関心領域のなかで生きている。劇的に推移する事件ほど視聴率は上がる。特にネット空間のニュースはそういう傾向が強い。

 しかし、じっさいのフィリピンでの麻薬とは・・・どれほど市民社会に浸透しているものか、という虫瞰図式的な報道はほとんど見られない。本作は、その虫瞰図式的な方法でマニラの下町の夜を描写して説得力をもっている。臨場感に富んだ優れた映画だ。

 カメラは絶えずマニラの夜を徘徊するように動き回る。揺らぐ、そして、同時に町の喧噪、雑音も拾い歩く。熱帯の大気、庶民の体臭までスクリーンから溢れ来そうなドキュメントタッチの劇映画だ。そこでは必然、カメラは長まわしとなり、俳優は周到な演技力、むろん、街路、商店のなかの空間、物理的な制限そのものを小道具として演出する監督の力量もしたたかな計算をしている。

 街頭の雑音をそのまま効果音とするメンドーサ監督の「ノイズ主義」の作法はこれまでの作品に出てきたもので、監督の意志的な作劇法だ。

 ローサという初老の婦人が経営する小商いの雑貨商。生活費をかつかつ稼ぐ程度の店だ。日本的にいえば高度成長期前にあちこちに見られたヨロズヤ。雑貨だけの商いでは思うような収益は上げられない。そこで、いけないとは思っても麻薬の密売に手を出してしまう。麻薬はマニラに溢れ、その誘惑は巷に溢れている。ローサのような人は多い、という現実を根底に映画は成り立ち、説得力を持つのだろう。

 犯罪への加担は儲けに繋がる、しかし、何時、手が後ろに回るかわからないという危機感を絶えず自覚している。しかし、日々の必要が不安を覆う。しかし、ローサを足元を梳くってしまう夜がやってきた。

 密告によって警察が突然、闖入してくる。タバコのケースに少量、分配した麻薬はすぐ見つかってしまう。拘束、警察所での取り調べ。しかし、警察も汚染されている。

 「麻薬の取引は終身刑だ。20万払えば助けてやる」と脅される、いやマニラでは提案というものだろうし、警察と密売人との闇取引は第三世界では常態というものだろう。

 ローサに選択の余地はない。とりあえず、全財産を擲っても警察の言いなりになるしか方法はない。映画は、そのローサの行動をたった一昼夜の時間のなかで描いたものだ。

 妻としての顔、母親としての献身、小商い店主の苦労、密告したものへの怒り、警察とのやりとりにおける悲哀、絶望、そして釈放=解放、安ど、再度、また無から立ち上がっていかねばならない気持ちの整理、立て直し・・・人気の少ない朝の街頭、路天商からアイスクリームを買い、頬張るローサ。ジャクリン・ホセの演じるマニラの夜に同化したローサが演技が素晴らしい。第69回カンヌ国際映画祭で主演女優賞を獲得したのも肯ける。