映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 キライ編 1 映画『映画と恋とウディ・アレン』 ロバート・B・ウィード監督

映画『映画と恋とウディ・アレン』 ロバート・B・ウィード監督f:id:cafelatina:20170729024154j:plain

 小生、ウディ・アレンの映画がキライである。何故だか判然としないが相性が合わない。世評の高さ、ヒットしている事実をまず横において虚心になってスクリーンに注目するもキライという感情は拭えない。

 まず、彼の顔が監督らしくない(監督顔ってあるのかと反問されると俄かに

答えられないが)。コメディアンとしても小生には鬱陶しい顔だ(鬱陶しい顔の芸人はヨシモトにもたくさんいるが)。脚本家というなら蔭に引っ込んでいればいい(倉本聡さんや向田邦子さんは日向に出てきたが)。しかし、彼はスクリーンに大写されるし、アノ顔で美女と恋愛したりする、それも気にいらない。だいたいセリフが多すぎる、のべつ暇なく捲くし立てる映画が多い。意味もないセリフが多いが、それが団塊となって、団塊の世代に支持されてきたから始末が悪い。

 字幕から目をそらさずに凝視するのは初期のゴダール映画でうんざりしている。

 わが国は間の美 学がある。語らずとも阿吽の呼吸ですべて分かち合えるつつましく節度ある文化がある。映画でいえば小津安二郎は、最少のセリフで人生の深淵に立たせてくれる。そんな文化を尊ぶ小生にはまったくもってアレンの映画はいかがわしい。そして、そんなアレンが新作が撮り日本公開が決まると、いつも郵便受けにこっそり試写状が落されているのがまず、不愉快だ。ソレが存在しているという紛れもない不快な事実は観ることによってしか癒されない。だから、出かける。そして、またキライな奴の映画に2時間も捧げてしまったと地団駄踏むのだ。

 キライな奴の映画の新作紹介なんか忌々しい。はて、どうして小生はアレンの映画がキライと思うのだろうという疑問を呈することすら、不快。しかたがないので、本作をDVDを観る。どうも、この記録映画にはキライの秘密が隠されているように思ったからだ。

 そしてすぐスクリーンで観ればよかったと反省 する。何故なら映画館では112分で済んだものが、DVDは80分追加の192分という長尺なのだ。ケースには「完全版」とある。じゃなんだ、映画館に足を運び、高い木戸銭を払った善男善女は“不完全版”を見せられたのかと物言いをつけたくなる。こういうのは消費庁にクレームをつけるべきだ。わざわざ「完全版」と銘打ってセールスする商人根性も気に入らない。まずもって不快だ。また80分もツケを払わないといけない。80分は片手間に見てればいいのだ、と斜に構えて視聴する。80分とはベートーヴェンの第九以上の時間だ。まったく時間泥棒ではないか。

 そして、良くできたドキュメンタリーとなっていることに腹に立てる。「良くできた」とはアレンに対する称賛ではない、本作のロバート・B・ウィード監督に向けたものだ。

 アレンは本作のなかでもシニカルなジョークを繰り返し飛ばしている。目の笑っていないアノ冷笑、厚顔さぶり。192分、退屈しないでみ てしまった自分にまた腹が立つ。

 もう映画を制作しないで引退しろ、と言いたい。韓国人の若妻と乳繰り合っていろ、と下世話なヤジを飛ばしたくなる。しかし、本人、「近作の批評を気にしないですむのは次作の準備をいつもしているからだ」、なんて減らず口を叩いていることを知ると、まだまだアレンは小生にとって時間泥棒であり、不快のマグマの渦から解放されないということだ。こればかりは腹を括るしかない。映画の甘い毒は彼のフィルムが一番、濃いように思う。

▽2011年・米国映画。