映画の地球 バレエと映画 2 バリシニコフ主演のバレエ映画『ホワイトナイツ』
バリシニコフ主演のバレエ映画の秀作『ホワイトナイツ』
そして、ヴィソツキーの歌
舞踊を主題にした映画を観る批評の視点はひとつしかない。クラシックであろうがモダンであろうが、フラメンコでも日本舞踊も同じ、インド舞踊もしかり……。描かれる舞踊が借り衣装のままか、釣り紐がいくども肌の色に染められているかどうかの違いだ。
その意味では先に批評した映画『ブラックスワン』は駄作である。その理由は「バレエと映画1」を読んでもらえば了解できるだろう。その批評のなかで少し触れたミハイル・バリシニコフ主演の映画『ホワイトナイツ』を約30年ぶりに見直した。1985年の制作で翌年、日本で公開されているのでスクリーンで観ている。その時に感心したことが、それほど退色せずに印象された。
ソ連解体までまだ5年以上の歳月がある時点で制作されている。初見の印象は「そうとう意図的な反ソ映画」というものだったし、そう今まで記憶されていた。当時、ソ連では“禁じられた歌”であったヴィソツキーの歌でバリシニコフは振付けしている。これでバリシニコフはソ連が共産党独裁という政治形態を崩さない限り永遠に生れ故郷には戻れないだろうと思った。その意味ではバリシニコフ覚悟の映画である。
ちなみにバリシニコフはバルト三国のひとつでソ連解体後、いち早く独立宣言をした国のひとつラトビア共和国の出身だ。ラトビア、そしてリトアニア、エストニアのバルト三国はいち早くFIFA(国際サッカー連盟)に加盟するなどいち早くクレムリンの支配から逃れた。公用語としてロシア語を押し付けられながらも、けっして民俗伝統を捨てずに世代を超えて遺贈していったラトビア及びバルト三国、その地から出た亡命者バリシニコフのアイディティティを想う。
バリシニコフは本作の前、77年に『愛と喝采の日々』でダンサー役としてベッドシーンもある俳優としてスクリーン・デビューしている。この映画もバレエ映画の秀作だ。『ブラックスワン』もそうだが、何故か女性を主人公にしたバレエ映画はクラシック・バレエに偏重する傾向があり、男性を主人公にすえると創作舞踊に傾斜する傾向がある。古典が女性美追求の要素が強いため、映画で男性ダンサーの内面を表象化するには駒が少なく必然的に創作される傾向が強いようだ。
『ホワイトナイツ』は冷戦時代の産物だ。政治亡命を主題としているドラマにおけるバレエだから古典から範を求めることはできずに創作モノに語らせることになった。また、助演のグレゴリー・ハインズがタップダンスの名手であり、ダンサーから俳優に転身した才能であってみれば、ハインズの魅力も引き出すためにもバリシニコフの豊かな創造性はあたらしい表現を求めずにはいられなかった。
ハインズが“ニグロ”としてのおいたちをタップダンスで語るシーンは秀逸だ。そして、彼がいまはシベリアの寒村でしがない“旅芸人”として踊っているのは、米国軍から脱走してソ連邦に脱走したためである。
世界的なダンサー役として登場するバリシニコフは、亡命後の公演旅行の途上、欧州から東京へ向かう旅客機がシベリア上空でエンジン・トラブルを起こす。飛行機はシベリアのソ連空軍の秘密基地に緊急着陸する。そして、バリシニコフ役のダンサーは“政治犯”として囚われの身になってしまう。そのバリシニコフとハインズがふたたび西側へ脱出するというドラマである。
立て筋が「政治」の重さと緊張でしまっており、その枝葉の部分でバリシニコフとハインズのダンスが適宜、それも取ってつけたようなところもなく流露するのは演出・演技の見事な呼応だろう。
しかし、本作を観終わった後、筆者がいちばん望んだのはヴィソツキーの歌だった。バリシニコフはソ連邦解体の歴史的瞬間をみたが、ヴォィソツキーはそれを知らずに夭折した。けれど、彼の野太い自作の歌はいまも真実の自由を希求するロシア市民の胸のなかに生きているはずだ。いま、ロシアではプーチン“独裁”を打倒するため街頭に出てきた市民が何十万もいる。そんな市民たちの胸に怒りの火を点火したのはヴィソツキーの魂だと思う。バリシニコフが還れないロシアのかぼそい自由の窓から届けられたヴィソツキーの歌で踊ろうと思った心根に通底するものだ。
映画の地球 バレエと映画 1 ナタリー・ポートマン主演映画『ブラック・スワン』と歴代のバレエ映画
バレエ映画は大きなスクリーンで観たいものだが、仕事だから仕方がない、マスコミ用の試写室で観ることになる。気になれば公開されてから映画館で観ることになるけど、意外とそうまでして再見したいと思うバレエ映画は少ない。結論からいえば、本作『ブラック・スワン』(ダーレン・アロノフスキー監督)は、わざわざ映画館に足を運ぶことはないだろう。
今年のアカデミー賞主演女優賞を獲ったナタリー・ポートマンが主演と訊き、是いかにと期待して六本木の試写室に出かけたが、彼女の演技ばかりが突出して、バレエ的要素は希薄、そして見事な駄作。主要部門に軒並みノミネートされながらオスカーを獲得したのがポートマンだけということで、それは証明されていよう。
ポートマンの才能は確かに図抜けたところがある。地力としての演技力にくわえ、役に対する入れ込み、努力を惜しまない。日本的にいうとすこぶるつきの根性をもった女優さんだし、あふれる個性を抑え、凡庸に演技することもできるしたたかさも持っている。たとえば、制作すれば世界的ヒット間違いない『スター・ウォーズ』の「エピソード」シリーズ3作でアミダラ役を演じている。そこでは肩の力を抜いている。娯楽映画では映画会社の意図通りビジネスライクに演技して力演しない。いわば被雇用者の立場をわきまえいる。
その反面、『宮廷画家ゴヤはみた』では魔女狩りに遇い宗教裁判にかけられる良家の子女役とか、『ブリーン家の姉妹』ではイングランド王家の相続を巡る係争のなかでしたたかに関わり権謀にも長けたアン役といったキャスティングには自ら能動的に役作りをして、独自の存在感を示す。そんな才能である。
しかし、クラシック・バレエ界、なかんずくプリンシパルを描いた映画における主演女優ということでは、『赤い靴』や『愛と喝采の日々』といった名作を知るものにとっては、ポートマンが幾らがんばっているとはいえ、そこはバレエの素人、型だけ真似ても化けの皮はすぐ剥がれる。バレエ映画は舞踊シーンが生命線なのだから、これはそれなりに訓練を積んだバレエに比重を置いた「女優」さんが演じた方がいいに決まっている。
『シャル・ウイ・ダンス?』が成功したのはバレリーナの草刈民代さんの演技力があったからだ。ポートマンの演技力はさすがだが、バレエはまったくなっていないし、だいたいシナリオに無理がある。
人気バレエ団でながいことプリンシパルとして活躍していたバレリーナが肉体的な衰えを理由に引退させられる。そして、あたらしいプリンシパルの誕生だ。美貌に恵まれ、才能もあり技量も問題のないニナ(ナタリー・ポートマン)がその筆頭候補にあがるが欠点もある。負けず嫌いのくせに神経症的に小心なのだ。よい子過ぎて羽目を外さなかった優等生タイプ。けれど、ステージでは女性の純血を象徴する白鳥と、反対に邪悪性を象徴する黒鳥を演じることになる。しかし、黒鳥役に難があると指摘された。ニナはそれに悩む。役を獲得したいから無我夢中で練習にも励むも、役になりきれないもどかしさに懊悩する。その過程で少々、精神分裂症気味になってしまうのだ。このあたりはサイコティックな雰囲気になって、作り物にみえてくる。そして、バレエを少しでも知るものなら、この映画がむなしい作り物話として醒めるはずだ。
つまり、ニナのように美貌に恵まれ才能もある若いバレリーナは世界には掃いて捨てるほど、とはいわないまでも、けっして少ない数ではない。そこから世界的な名声を獲得するのはほんのわずかな才能だけだ。美貌と才能、プラス努力型であり、度胸もあり、いかなる逆境にもめげない精神力の強さをもつ者だけがプリンシパルの座を獲得する。だから、ニナのように主役を獲得しながら、自信喪失といったふがいない精神力の持ち主では絶対にプリンシパルにはなれない。『白鳥の湖』でいうなら、目立つはするが所詮、群舞にすぎない「四羽の白鳥」の踊り役を獲得するのがせいぜいなのだ。
したがって、ニナ役は映画的真実というもので、現実にはまずあり得ない話。しかし、そんな作り話も、俳優の力量で魅せてしまう。それがナタリー・ポートマンという女優なのだ。
ニナの敵役となるリリーを演じたミラ・クニス、舞台監督ルロイを演じたフランスの俳優ヴァンサン・カッセル……この3人の才能でもっている作品だ。ナタリーはイスラエル出身、ミラはウクライナ、そしてカッセルはフランスの人気俳優。ハリウッドのすごさは世界中から才能を集める吸引力だが、その成果が見事にあらわれた映画としては特筆されるだろうし、記憶に遺されるだろう。
そして、『ブラック・スワン』をみた若いファンは、レンタル屋さんで『愛と喝采の日々』(ハーバード・ロス監督*1977)を借りてみて欲しい。私のいわんとしていることが了解できるだろう。
シャーリン・マクレーンとアン・ヴァンクラフトの火花を散らす演技もさることながら、プリンシパルへの道を駆け上がっていく少女を演じた女優さんの演技力とバレエそのものの実力も見応えある。くわえてソ連から亡命後、初の劇映画主演となったミハイル・バリシニコフのバレエは当然としても、並みいる名優を前にした演技も遜色なかった。草刈さん並みに。
バリシニコフはこの映画の成功によって、次作でタップダンスの名手グレゴリー・ハインズと組んでバレエも魅せれば、アクション・スター並みの活躍をする映画『ホワイト・ナイツ』(テイラー・ハックフォード監督*1985)に主演する。反ソ臭が強く、バリシニコフの亡命を英雄的に肯定する、ある意味、反ソプロバカンダ映画。
しかし、ソ連(ロシア)のバレエ界はバリシニコフというスターを失ってもすぐ次のスターが誕生するほど土壌は豊かだ。われわれはバリシニコフの後、ウズベキスタン出身のルジマトフを認めることになる。
『ブラック・スワン』にしても、『愛と喝采の日々』にしても、そこで演じられるバレエそのものは古典である。バレエが映像という手段のなかで、また別の表現方法がある、という明確なビジョンをもって制作されたのが、『赤い靴』(マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー共同監督*1948)。
映画という表現手段がなし得る編集による時間処理、詐術、トリミングなどを使って、映画でならではの表現を見事に実現している。この映画もまたプリンシパルの新旧交替がテーマだが、その新人プリマ役を演じたモイア・シアラーのバレエ・テクニックとドラマの部分での演技力も素晴らしいのだ。という意味ではクラシック・カテゴリーのなかでは、もっともすぐれたバレエ映画だと思う。『白鳥の湖』『コッペリア』『ジゼル』など古典のエッセンスもきちんと魅せるサービス精神も嬉しい。バレエそのものを新しく魅せるということでは、『ブラック・スワン』や『愛と喝采の日々』より優れているのだ。
そして、どうしてそういうことになったのかと、マーティン・スコセッシ監督がオリジナル・ネガを処理・復元したデジタルマスター版を数日前、試写でみて納得した。そこにはニジンスキーやストラビンスキー、ピカソやココ・シャネルの才能まで取り込んだディアギレフのロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の深甚なる影響下で撮られ、その実験性の直系であろうとする意気込み、熱気がそこにあるのだった。いや、ニジンスキーの模倣ともいえる創作まである。そのバレエ・リュスのエキスは映画では、『ブラック・スワン』の方へは流れず、『ウエストサイド物語』の方へ流れたのではないかとさえ思える。古典も魅せれば新作物にも意欲的なニューヨーク・シティ・バレエの十八番のひとつが『ウエストサイド物語』であることを思い出す。このバレエ団の創立にかかわったのがバレエ・リュスの振付師だったグルジア人のバラシンであったことを思い出す。
古典から離れていえば、『ウエストサイド物語』の時代の不良たちはやがてNYサルサの創造に関わり、育み、やがてダンス音楽はラテン・ティストが主流になってゆく。
映画の地球 プーチン大統領下のロシア映画 6 『デイ・ウォッチ』(2006・ティムール・ハベンスキー監督)
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かつて、イタリアで亡命の日々を送っていた詩人パブロ・ネルーダと郵便配達青年のささやかな友情を描いた『イル・ポスティーノ』(1994)という佳作があった。それは素直にネルーダへの共感を生み出すものだったが、本作はチリの映画人が造った練った作品でありながら、本作におけるネルーダ像は素直に首肯できかなかった。
映画の地球 朝鮮戦争を描く 1 イ・ジェハン監督『戦火の中へ』学徒兵たちの身を張った籠城戦
朝鮮戦争を描く 1
イ・ジェハン監督『戦火の中へ』
学徒兵たちの身を張った籠城戦
朝鮮半島の全域がほぼ戦場となった朝鮮戦争を描いた映画は、国連軍の中核であった米国軍兵士の視点から撮られたハリウッド作品からはじまり、やがて韓国、北朝鮮で制作されるようになった。
映画の地球 非愛国的な米国映画『バトル・オブ・ノルマンディー』 ティノ・ストラックマン監督
映画の地球 Antifaとウェーザマン、米国の混迷のなかで 映画『ランナウェイ』 ロバート・レッドフォード監督
映画『ランナウェイ』ロバート・レッドフォード監督・主演・製作
トランプ米大統領が有力候補として共和党の予備選を勝ち抜いていた時期かた極右派のあらたな台頭があった。それは旧来の白人至上主義を標ぼうする勢力を表舞台に引き出すかたちで急速に勢力を拡大してきたことは読者も良く知るところだろう。そして、そうした極右派へのカウンターとして、暴力を厭わない匿名の集団、日本では黒い衣装で顔も覆った集団として印象づけられているがAntifaを名乗る極左派ともいえる勢力の台頭を促した。米国は混迷を深めていることだけは確かだろう。