映画の地球 バレエと映画 1 ナタリー・ポートマン主演映画『ブラック・スワン』と歴代のバレエ映画
バレエ映画は大きなスクリーンで観たいものだが、仕事だから仕方がない、マスコミ用の試写室で観ることになる。気になれば公開されてから映画館で観ることになるけど、意外とそうまでして再見したいと思うバレエ映画は少ない。結論からいえば、本作『ブラック・スワン』(ダーレン・アロノフスキー監督)は、わざわざ映画館に足を運ぶことはないだろう。
今年のアカデミー賞主演女優賞を獲ったナタリー・ポートマンが主演と訊き、是いかにと期待して六本木の試写室に出かけたが、彼女の演技ばかりが突出して、バレエ的要素は希薄、そして見事な駄作。主要部門に軒並みノミネートされながらオスカーを獲得したのがポートマンだけということで、それは証明されていよう。
ポートマンの才能は確かに図抜けたところがある。地力としての演技力にくわえ、役に対する入れ込み、努力を惜しまない。日本的にいうとすこぶるつきの根性をもった女優さんだし、あふれる個性を抑え、凡庸に演技することもできるしたたかさも持っている。たとえば、制作すれば世界的ヒット間違いない『スター・ウォーズ』の「エピソード」シリーズ3作でアミダラ役を演じている。そこでは肩の力を抜いている。娯楽映画では映画会社の意図通りビジネスライクに演技して力演しない。いわば被雇用者の立場をわきまえいる。
その反面、『宮廷画家ゴヤはみた』では魔女狩りに遇い宗教裁判にかけられる良家の子女役とか、『ブリーン家の姉妹』ではイングランド王家の相続を巡る係争のなかでしたたかに関わり権謀にも長けたアン役といったキャスティングには自ら能動的に役作りをして、独自の存在感を示す。そんな才能である。
しかし、クラシック・バレエ界、なかんずくプリンシパルを描いた映画における主演女優ということでは、『赤い靴』や『愛と喝采の日々』といった名作を知るものにとっては、ポートマンが幾らがんばっているとはいえ、そこはバレエの素人、型だけ真似ても化けの皮はすぐ剥がれる。バレエ映画は舞踊シーンが生命線なのだから、これはそれなりに訓練を積んだバレエに比重を置いた「女優」さんが演じた方がいいに決まっている。
『シャル・ウイ・ダンス?』が成功したのはバレリーナの草刈民代さんの演技力があったからだ。ポートマンの演技力はさすがだが、バレエはまったくなっていないし、だいたいシナリオに無理がある。
人気バレエ団でながいことプリンシパルとして活躍していたバレリーナが肉体的な衰えを理由に引退させられる。そして、あたらしいプリンシパルの誕生だ。美貌に恵まれ、才能もあり技量も問題のないニナ(ナタリー・ポートマン)がその筆頭候補にあがるが欠点もある。負けず嫌いのくせに神経症的に小心なのだ。よい子過ぎて羽目を外さなかった優等生タイプ。けれど、ステージでは女性の純血を象徴する白鳥と、反対に邪悪性を象徴する黒鳥を演じることになる。しかし、黒鳥役に難があると指摘された。ニナはそれに悩む。役を獲得したいから無我夢中で練習にも励むも、役になりきれないもどかしさに懊悩する。その過程で少々、精神分裂症気味になってしまうのだ。このあたりはサイコティックな雰囲気になって、作り物にみえてくる。そして、バレエを少しでも知るものなら、この映画がむなしい作り物話として醒めるはずだ。
つまり、ニナのように美貌に恵まれ才能もある若いバレリーナは世界には掃いて捨てるほど、とはいわないまでも、けっして少ない数ではない。そこから世界的な名声を獲得するのはほんのわずかな才能だけだ。美貌と才能、プラス努力型であり、度胸もあり、いかなる逆境にもめげない精神力の強さをもつ者だけがプリンシパルの座を獲得する。だから、ニナのように主役を獲得しながら、自信喪失といったふがいない精神力の持ち主では絶対にプリンシパルにはなれない。『白鳥の湖』でいうなら、目立つはするが所詮、群舞にすぎない「四羽の白鳥」の踊り役を獲得するのがせいぜいなのだ。
したがって、ニナ役は映画的真実というもので、現実にはまずあり得ない話。しかし、そんな作り話も、俳優の力量で魅せてしまう。それがナタリー・ポートマンという女優なのだ。
ニナの敵役となるリリーを演じたミラ・クニス、舞台監督ルロイを演じたフランスの俳優ヴァンサン・カッセル……この3人の才能でもっている作品だ。ナタリーはイスラエル出身、ミラはウクライナ、そしてカッセルはフランスの人気俳優。ハリウッドのすごさは世界中から才能を集める吸引力だが、その成果が見事にあらわれた映画としては特筆されるだろうし、記憶に遺されるだろう。
そして、『ブラック・スワン』をみた若いファンは、レンタル屋さんで『愛と喝采の日々』(ハーバード・ロス監督*1977)を借りてみて欲しい。私のいわんとしていることが了解できるだろう。
シャーリン・マクレーンとアン・ヴァンクラフトの火花を散らす演技もさることながら、プリンシパルへの道を駆け上がっていく少女を演じた女優さんの演技力とバレエそのものの実力も見応えある。くわえてソ連から亡命後、初の劇映画主演となったミハイル・バリシニコフのバレエは当然としても、並みいる名優を前にした演技も遜色なかった。草刈さん並みに。
バリシニコフはこの映画の成功によって、次作でタップダンスの名手グレゴリー・ハインズと組んでバレエも魅せれば、アクション・スター並みの活躍をする映画『ホワイト・ナイツ』(テイラー・ハックフォード監督*1985)に主演する。反ソ臭が強く、バリシニコフの亡命を英雄的に肯定する、ある意味、反ソプロバカンダ映画。
しかし、ソ連(ロシア)のバレエ界はバリシニコフというスターを失ってもすぐ次のスターが誕生するほど土壌は豊かだ。われわれはバリシニコフの後、ウズベキスタン出身のルジマトフを認めることになる。
『ブラック・スワン』にしても、『愛と喝采の日々』にしても、そこで演じられるバレエそのものは古典である。バレエが映像という手段のなかで、また別の表現方法がある、という明確なビジョンをもって制作されたのが、『赤い靴』(マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー共同監督*1948)。
映画という表現手段がなし得る編集による時間処理、詐術、トリミングなどを使って、映画でならではの表現を見事に実現している。この映画もまたプリンシパルの新旧交替がテーマだが、その新人プリマ役を演じたモイア・シアラーのバレエ・テクニックとドラマの部分での演技力も素晴らしいのだ。という意味ではクラシック・カテゴリーのなかでは、もっともすぐれたバレエ映画だと思う。『白鳥の湖』『コッペリア』『ジゼル』など古典のエッセンスもきちんと魅せるサービス精神も嬉しい。バレエそのものを新しく魅せるということでは、『ブラック・スワン』や『愛と喝采の日々』より優れているのだ。
そして、どうしてそういうことになったのかと、マーティン・スコセッシ監督がオリジナル・ネガを処理・復元したデジタルマスター版を数日前、試写でみて納得した。そこにはニジンスキーやストラビンスキー、ピカソやココ・シャネルの才能まで取り込んだディアギレフのロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の深甚なる影響下で撮られ、その実験性の直系であろうとする意気込み、熱気がそこにあるのだった。いや、ニジンスキーの模倣ともいえる創作まである。そのバレエ・リュスのエキスは映画では、『ブラック・スワン』の方へは流れず、『ウエストサイド物語』の方へ流れたのではないかとさえ思える。古典も魅せれば新作物にも意欲的なニューヨーク・シティ・バレエの十八番のひとつが『ウエストサイド物語』であることを思い出す。このバレエ団の創立にかかわったのがバレエ・リュスの振付師だったグルジア人のバラシンであったことを思い出す。
古典から離れていえば、『ウエストサイド物語』の時代の不良たちはやがてNYサルサの創造に関わり、育み、やがてダンス音楽はラテン・ティストが主流になってゆく。
映画の地球 プーチン大統領下のロシア映画 6 『デイ・ウォッチ』(2006・ティムール・ハベンスキー監督)
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かつて、イタリアで亡命の日々を送っていた詩人パブロ・ネルーダと郵便配達青年のささやかな友情を描いた『イル・ポスティーノ』(1994)という佳作があった。それは素直にネルーダへの共感を生み出すものだったが、本作はチリの映画人が造った練った作品でありながら、本作におけるネルーダ像は素直に首肯できかなかった。
映画の地球 朝鮮戦争を描く 1 イ・ジェハン監督『戦火の中へ』学徒兵たちの身を張った籠城戦
朝鮮戦争を描く 1
イ・ジェハン監督『戦火の中へ』
学徒兵たちの身を張った籠城戦
朝鮮半島の全域がほぼ戦場となった朝鮮戦争を描いた映画は、国連軍の中核であった米国軍兵士の視点から撮られたハリウッド作品からはじまり、やがて韓国、北朝鮮で制作されるようになった。
映画の地球 非愛国的な米国映画『バトル・オブ・ノルマンディー』 ティノ・ストラックマン監督
映画の地球 Antifaとウェーザマン、米国の混迷のなかで 映画『ランナウェイ』 ロバート・レッドフォード監督
映画『ランナウェイ』ロバート・レッドフォード監督・主演・製作
トランプ米大統領が有力候補として共和党の予備選を勝ち抜いていた時期かた極右派のあらたな台頭があった。それは旧来の白人至上主義を標ぼうする勢力を表舞台に引き出すかたちで急速に勢力を拡大してきたことは読者も良く知るところだろう。そして、そうした極右派へのカウンターとして、暴力を厭わない匿名の集団、日本では黒い衣装で顔も覆った集団として印象づけられているがAntifaを名乗る極左派ともいえる勢力の台頭を促した。米国は混迷を深めていることだけは確かだろう。
映画の地球 スポーツと映画 1 カーリング主題 『シムソンズ』、『素敵な夜、ボクにください』
『シムソンズ』は、2002ソルトレイク大会に出場した実在の女子チームをモデルとして青春ドラマに仕立てた、やわらかいスポ魂ドラマ。北海道常呂町の女子高校生たちがルールも知らずにストーンを氷上に踏み出すところから描かれている。しかし、この映画、女子 高校生たちの話ということで、スクリーンに若さが弾けるのは良いがうるさい。『素敵な夜……』もそうだが、まったくの素人が競技にのめり込んでゆく過程が描かれることで、観る側もともにルールを把握し、競技特有の練習方法や苦労があることがつまびらかにされて、その点、なかなか教育的効果がある。しかし、それが少々、解説調になってしまう分だけ、アート性、いやドラマ性は損なわれるわけだが、もとよりそんな高尚な時点から撮られていないので、そのあたりは不問。
『素敵な夜……』などは、かなり動機が不純。売れない女優いづみが、韓国の人気俳優と錯覚して一夜を共にしてしまう、というところから話がはじまるのだ。その韓国人はカーリングのナショナルチームに迎えられる ほどの実力者だったという大変、ご都合主義的、安易な設定から、いずみがカーリングへののめりこんでゆく発条となる。監督は、『櫻の園』『12人の優しい日本人』を代表作とする実力者となっているが、『素敵な夜……』では馬脚を露呈しているとしか思えない。だいたい『櫻の園』は木下恵介の往年の名作『女の園』に啓示を受けたものだろうし、『12人の……』は誰が見たって社会派の名匠シドニー・ルメットの『十二人の怒れる男たち』の翻案だろし、いいとこ取りの監督という評価しか献上できない。たぶん、韓流ブームとかの影響圏から韓国の人気男優キム・スンウが採用されたのだろうが、あまりにも安易な物語。ただし、カーリングという競技への理解だけは確かに深まるのであった、オワリ 。