映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 バレエと映画 1  ナタリー・ポートマン主演映画『ブラック・スワン』と歴代のバレエ映画

f:id:cafelatina:20171007030549j:plain

 バレエ映画は大きなスクリーンで観たいものだが、仕事だから仕方がない、マスコミ用の試写室で観ることになる。気になれば公開されてから映画館で観ることになるけど、意外とそうまでして再見したいと思うバレエ映画は少ない。結論からいえば、本作『ブラック・スワン』(ダーレン・アロノフスキー監督)は、わざわざ映画館に足を運ぶことはないだろう。
 今年のアカデミー賞主演女優賞を獲ったナタリー・ポートマンが主演と訊き、是いかにと期待して六本木の試写室に出かけたが、彼女の演技ばかりが突出して、バレエ的要素は希薄、そして見事な駄作。主要部門に軒並みノミネートされながらオスカーを獲得したのがポートマンだけということで、それは証明されていよう。
 ポートマンの才能は確かに図抜けたところがある。地力としての演技力にくわえ、役に対する入れ込み、努力を惜しまない。日本的にいうとすこぶるつきの根性をもった女優さんだし、あふれる個性を抑え、凡庸に演技することもできるしたたかさも持っている。たとえば、制作すれば世界的ヒット間違いない『スター・ウォーズ』の「エピソード」シリーズ3作でアミダラ役を演じている。そこでは肩の力を抜いている。娯楽映画では映画会社の意図通りビジネスライクに演技して力演しない。いわば被雇用者の立場をわきまえいる。
 その反面、『宮廷画家ゴヤはみた』では魔女狩りに遇い宗教裁判にかけられる良家の子女役とか、『ブリーン家の姉妹』ではイングランド王家の相続を巡る係争のなかでしたたかに関わり権謀にも長けたアン役といったキャスティングには自ら能動的に役作りをして、独自の存在感を示す。そんな才能である。
 しかし、クラシック・バレエ界、なかんずくプリンシパルを描いた映画における主演女優ということでは、『赤い靴』や『愛と喝采の日々』といった名作を知るものにとっては、ポートマンが幾らがんばっているとはいえ、そこはバレエの素人、型だけ真似ても化けの皮はすぐ剥がれる。バレエ映画は舞踊シーンが生命線なのだから、これはそれなりに訓練を積んだバレエに比重を置いた「女優」さんが演じた方がいいに決まっている。
 『シャル・ウイ・ダンス?』が成功したのはバレリーナ草刈民代さんの演技力があったからだ。ポートマンの演技力はさすがだが、バレエはまったくなっていないし、だいたいシナリオに無理がある。
 人気バレエ団でながいことプリンシパルとして活躍していたバレリーナが肉体的な衰えを理由に引退させられる。そして、あたらしいプリンシパルの誕生だ。美貌に恵まれ、才能もあり技量も問題のないニナ(ナタリー・ポートマン)がその筆頭候補にあがるが欠点もある。負けず嫌いのくせに神経症的に小心なのだ。よい子過ぎて羽目を外さなかった優等生タイプ。けれど、ステージでは女性の純血を象徴する白鳥と、反対に邪悪性を象徴する黒鳥を演じることになる。しかし、黒鳥役に難があると指摘された。ニナはそれに悩む。役を獲得したいから無我夢中で練習にも励むも、役になりきれないもどかしさに懊悩する。その過程で少々、精神分裂症気味になってしまうのだ。このあたりはサイコティックな雰囲気になって、作り物にみえてくる。そして、バレエを少しでも知るものなら、この映画がむなしい作り物話として醒めるはずだ。
 つまり、ニナのように美貌に恵まれ才能もある若いバレリーナは世界には掃いて捨てるほど、とはいわないまでも、けっして少ない数ではない。そこから世界的な名声を獲得するのはほんのわずかな才能だけだ。美貌と才能、プラス努力型であり、度胸もあり、いかなる逆境にもめげない精神力の強さをもつ者だけがプリンシパルの座を獲得する。だから、ニナのように主役を獲得しながら、自信喪失といったふがいない精神力の持ち主では絶対にプリンシパルにはなれない。『白鳥の湖』でいうなら、目立つはするが所詮、群舞にすぎない「四羽の白鳥」の踊り役を獲得するのがせいぜいなのだ。
 したがって、ニナ役は映画的真実というもので、現実にはまずあり得ない話。しかし、そんな作り話も、俳優の力量で魅せてしまう。それがナタリー・ポートマンという女優なのだ。
 ニナの敵役となるリリーを演じたミラ・クニス、舞台監督ルロイを演じたフランスの俳優ヴァンサン・カッセル……この3人の才能でもっている作品だ。ナタリーはイスラエル出身、ミラはウクライナ、そしてカッセルはフランスの人気俳優。ハリウッドのすごさは世界中から才能を集める吸引力だが、その成果が見事にあらわれた映画としては特筆されるだろうし、記憶に遺されるだろう。
 愛と喝采の日々
 そして、『ブラック・スワン』をみた若いファンは、レンタル屋さんで『愛と喝采の日々』(ハーバード・ロス監督*1977)を借りてみて欲しい。私のいわんとしていることが了解できるだろう。
 シャーリン・マクレーンとアン・ヴァンクラフトの火花を散らす演技もさることながら、プリンシパルへの道を駆け上がっていく少女を演じた女優さんの演技力とバレエそのものの実力も見応えある。くわえてソ連から亡命後、初の劇映画主演となったミハイル・バリシニコフのバレエは当然としても、並みいる名優を前にした演技も遜色なかった。草刈さん並みに。
 バリシニコフはこの映画の成功によって、次作でタップダンスの名手グレゴリー・ハインズと組んでバレエも魅せれば、アクション・スター並みの活躍をする映画『ホワイト・ナイツ』(テイラー・ハックフォード監督*1985)に主演する。反ソ臭が強く、バリシニコフの亡命を英雄的に肯定する、ある意味、反ソプロバカンダ映画。
 しかし、ソ連(ロシア)のバレエ界はバリシニコフというスターを失ってもすぐ次のスターが誕生するほど土壌は豊かだ。われわれはバリシニコフの後、ウズベキスタン出身のルジマトフを認めることになる。
shoes.jpg

 『ブラック・スワン』にしても、『愛と喝采の日々』にしても、そこで演じられるバレエそのものは古典である。バレエが映像という手段のなかで、また別の表現方法がある、という明確なビジョンをもって制作されたのが、『赤い靴』(マイケル・パウエルエメリック・プレスバーガー共同監督*1948)。
 映画という表現手段がなし得る編集による時間処理、詐術、トリミングなどを使って、映画でならではの表現を見事に実現している。この映画もまたプリンシパルの新旧交替がテーマだが、その新人プリマ役を演じたモイア・シアラーのバレエ・テクニックとドラマの部分での演技力も素晴らしいのだ。という意味ではクラシック・カテゴリーのなかでは、もっともすぐれたバレエ映画だと思う。『白鳥の湖』『コッペリア』『ジゼル』など古典のエッセンスもきちんと魅せるサービス精神も嬉しい。バレエそのものを新しく魅せるということでは、『ブラック・スワン』や『愛と喝采の日々』より優れているのだ。
 そして、どうしてそういうことになったのかと、マーティン・スコセッシ監督がオリジナル・ネガを処理・復元したデジタルマスター版を数日前、試写でみて納得した。そこにはニジンスキーやストラビンスキー、ピカソやココ・シャネルの才能まで取り込んだディアギレフのロシア・バレエ団(バレエ・リュス)の深甚なる影響下で撮られ、その実験性の直系であろうとする意気込み、熱気がそこにあるのだった。いや、ニジンスキーの模倣ともいえる創作まである。そのバレエ・リュスのエキスは映画では、『ブラック・スワン』の方へは流れず、『ウエストサイド物語』の方へ流れたのではないかとさえ思える。古典も魅せれば新作物にも意欲的なニューヨーク・シティ・バレエの十八番のひとつが『ウエストサイド物語』であることを思い出す。このバレエ団の創立にかかわったのがバレエ・リュスの振付師だったグルジア人のバラシンであったことを思い出す。
 古典から離れていえば、『ウエストサイド物語』の時代の不良たちはやがてNYサルサの創造に関わり、育み、やがてダンス音楽はラテン・ティストが主流になってゆく。 

映画の地球 プーチン大統領下のロシア映画 6 『デイ・ウォッチ』(2006・ティムール・ハベンスキー監督)

 『デイ・ウォッチ』(2006・ティムール・ハベンスキー監督)

f:id:cafelatina:20171002094531j:plain

  監督は、その名から知れるように中央アジア、現在は域内大国として経済発展しつづけるカザフスタン出身のフィルムワーカー。ティムールとはウズベキスタンの民族英雄だが、ソ連時代に生を享けた監督は汎中央アジアの英雄としてその名を与えられたのだろう。ジンギスカンフビライにつぐ巨大帝国を築いた稀代の英雄を映画の冒頭で登場させる。自分の名の鼻祖であるティムールをわざわざ登場させるのは、カザフスタン人としての心意気だろうし、むろんソ連邦時代にはありえない描写だ。
  ソ連邦が解体し、ソ連の映画界は大きく表現領域を拡大した。元々、モスクワとサクトス・ペテルブルグにあった二大撮影所のポテンシャルは高かった。ソ連時代にも、「いまは叶わない映像も、やがて季節(とき)至れば、プロフェショナルとしてハリウッドに対抗できるものを作ってみせる」との意気込みもあった。そんな心意気を感じさせるSFバトルアクションが本作だが、ロシアで制作する限り、荒唐無稽なSFX映画であろうとも現実政治の批評がそこに入りこむ、入りこんでいる、とみられる。       
 映画は「光」と「闇」の勢力がせめぎ合い、表裏一体の混沌の時代となっているという設定。錯綜し混在しソ連解体後の混迷に呻吟するロシアを暗喩する。冒頭、ティムールの武断は、カザフスタンウズベキスタンイスラム教徒たちを批判するのではなく、新生ロシアはこれから中央アジアの力を無視できなくなる、と監督は暗に主張しているように思う。中央アジア諸国は周知の通り資源大国である。中国や韓国、そして日本も資源開発に先行投資しているのが現状だ。特にカザフスタンとながい国境を有する中国が進出は注視しなければならないだろう。
 
 映画の大半を占めるVFX多用のアクションシーンは映画の娯楽的要素を発散する重要な仕掛けであって、「光」と「闇」がどうなっているのか、錯綜していてわからなくなるといった解釈はほとんど無用。ただただ、そう描いてある、と見物し惹きつけられていればいい。大した意味はない。そうたっぷり視覚を愉楽した後、そこで主役を担っていた登場人物は、いきなり1992年の某月某日の夜に引き戻される。タクシーの運転手がソ連解体後、モスクワに急速に溢れ出したネオン、広告塔を横目に現代を嘆くというシーンに戻る。そのワンシーンを描くために長大な娯楽としてのバトルがあると見え透いているのでもある。
 1992年、プーチンはまだサクトスペテルブルグの上級役員といった位置で中央政界にはでていなかった。
 つまり、映画で描かれる「光」と「闇」の混乱はプーチンが最高権力者として実験を握る前のロシアということになる。これは、プーチン大統領1期目の時代、2006年に制作・公開された作品だが、映画の最終シーンで現れるメッセージから受け取れるのは、プーチン大統領が統治の開始とともに、〈混乱は急速に収束にむかった〉という評価につながる。それはプーチン政治が国外から、独裁的手法、人権抑圧だ、といくら批判されようとロシアの風土に似つかわしいものと国内では支持され、その後、再選、再々選されたことで証明されていると監督は暗に主張しているようだ。
 ダークSFとしてリドリー・スコット作品のように陰鬱なのは、ロシアのSF映画の特徴だ。かつて、タルコフスキーが描いた『惑星ソラリス』もまた陰鬱な 唯心論的な作品であった。故に、タルコフスキーソ連政府から疎まれていった。ハベンスキー監督は、唯心論を大手を振って語れる時代に仕事をしている、ある意味、しあわせな映像職人である。

これから公開
 映画『ネルーダ  大いなる愛の逃亡者』 パブロ・ラライン監督

f:id:cafelatina:20170924125701j:plain

  かつて、イタリアで亡命の日々を送っていた詩人パブロ・ネルーダと郵便配達青年のささやかな友情を描いた『イル・ポスティーノ』(1994)という佳作があった。それは素直にネルーダへの共感を生み出すものだったが、本作はチリの映画人が造った練った作品でありながら、本作におけるネルーダ像は素直に首肯できかなかった。

 スクリーンのネルーダ(ルイス・ニェッコ)から、筆者は軽侮、尊大な印象しか受けなかった。むしろ、本作は、ネルーダを逮捕することを時の大統領から直接指示された警部(ガエル・ガルシア・べナル)の映画ではないかと思える。
 ラテンアメリカ映画界では絶大なる人気を誇るガエ ルを起用したことでネルーダの出番が多くても、そのネルーダに影のように付きまとう「労働者」としての警部の存在によりリアリティがあった。
 考えてもみよ、詩人にとって亡命は苦難ではあっても創造者によって「苦難」ではなかった。それは創作の泉である。逃避行そのものが詩の泉である。ショパンみよ、ジャン・ジュネをみよ、である。ソルジェニーツィン、と栄光の名を数えあげたら切がないくらいだ。
 映画のネルーダから逃亡者の悲哀感が醸し出されていなのはそういうことで、それは否定するものではないが、俳優がそうした心性を理解しているとは思えなかった。すでに当時のネルーダはラテンアメリカの歴史、自然、民衆を叙事する桂冠詩人としての名声があり、チリ共産党の象徴的存在として絶大なる民衆の支持があり、逃避行の行く先々で便宜が与えられてゆく。むしろ、独裁政権の走狗となってネルーダを追う刑事の苦難、「闇」の方が深刻である。
 逃避行において相まみえることなく精神的な疎通が生じてゆくという錯綜した感情を描いていることでは秀逸な 映画なのだと思う。その意味では「闇」の象徴を体現するガエルの演技の方が優れている。
 ネルーダの追う若き警部は雪原で非業の死を迎え、闇に葬られる。亡命地、フランスで、ピカソからじきじきに英雄として称えられるネルーダはさらに名声をいやましてゆく・・・・。そういうことを描いた作品であって、ネルーダは象徴的主人公ではあっても、映画のコアな部分を支配するのは無名の刑事が主人公なのである。
▽2016年・チリ映画。108分。11月より公開。

映画の地球 朝鮮戦争を描く 1 イ・ジェハン監督『戦火の中へ』学徒兵たちの身を張った籠城戦

朝鮮戦争を描く 1

  イ・ジェハン監督『戦火の中へ』

     学徒兵たちの身を張った籠城戦

f:id:cafelatina:20170922200456j:plain 朝鮮半島の全域がほぼ戦場となった朝鮮戦争を描いた映画は、国連軍の中核であった米国軍兵士の視点から撮られたハリウッド作品からはじまり、やがて韓国、北朝鮮で制作されるようになった。

 けれど韓国映画(北朝鮮は論外のプロバカンダ)で国外に出ていける質を備えた作品は1990年代以降、韓国映画の隆盛まで待たなければならなかった。
 3年に及んだ戦争であったから、多くの数知れない悲劇、そして英雄譚が語られることになるのは当然だろう。われわれ日本人に、戦後復興を促した〈漁夫の利〉ともいえる戦需景気の恩恵をうけたことは確かだが、はたして朝鮮戦争の諸相にどれだけ注視した人があっただろうか・・・。それは本当に心もとないものであったはずだ。否、当時の日本人はまだ敗戦の痛撃のなかで生きるのに精いっぱいの状況であったから隣国の戦争とはいえ、ただただ望見するしかなかっただろうし、報道もGHQに検閲を受けているなかでは実相を知るには限界があった。
 90年代以降、韓国で陸続と制作されはじめた朝鮮戦争物映画によって、われわれはあらためて半島の戦禍の在りよう、その一端に触れはじめたのだった。それが映画的に脚色され、興行的にデフォルメがあるにせよ、「戦争」を韓国人がどのように認識し、回顧しているものと各層の断片なりをはじめて知るようになった。それは素直に貴重な体験であった。本作もそうした体験を蓄積を与える一編であった。
 冒頭、壮絶な市街戦、白兵戦からはじまるが、そのクオリティーの高さはなかなかのものだ。日本映画でこれだけの市街戦を描ける映画人はいないだろう。これだけで引き込まれる。そして、この戦闘シーンのなかで軍属的な補助兵士として銃弾運びなどに使役していた学生オ・ジャンポム(チェ・スンヒョン)が否応なく、自らを守るためにも兵士にならざるえない状況というものが、映像は畳み掛けるように観る者を説得するのだ。このあたりの運びはテンポもリズムも素晴らしい。
 
 物語は北朝鮮人民軍が破竹の勢いで南進を進め、韓国軍はいまやプサンまで後退させられているという状況のなかで起きた韓国学徒兵約70人の死闘を描いたものだ。女子中学校に立てこもり怒濤のように押し寄せてくる人民軍を、迎討つ戦争映画で、学徒兵たちはほぼ全滅する。皆殺しとなることが明々白々な戦いを強いられる・・・と映画の序章ではっきり示されているわけだから、短い休息の時間に無理なく学徒兵個々の、まだ人生をはじめたばかりのささやかな来歴がささやかに語られる。それがささやかであればあるほど悲劇性は増す。
 実録物としてみれば、そうとう脚色されていることは分かってしまうけど、その戦闘そのものが事実であったという重みがそれを許容する。
 心もとない〈戦力〉でしかない学徒兵たちをまとめる役を、一度、市街戦の弾雨のなかに身を晒したという体験だけで急きょ中隊長として任命されるオ・ジャンポム役をKポップスでスターらしい通称T・P・Oことチェ・スンヒョンの演技がなかなかいい。筆者にとってT・P・Oもチェ・スンヒョンも初見である。
 元々、まじめで控えめな性格であった学生が戦火のなかで急速に成長し、そして英雄的な死を迎えるという話はいかにもの流れだが、モデルがあったと強調されれば、そうかと首肯するしかない。
 元来、韓国映画、特に現代モノ、あるいは李朝期の宮廷モノにほとんど感心したことのない私だが、朝鮮戦争モノだけは、どこかで襟を正してみたいと思っている。筆者の父母が結婚して間もない時期の戦争ではあるが、日本の復興が朝鮮民族の大きな犠牲による戦争特需によって今日の繁栄につながる礎が築かれたという事実を鑑みれば、やはり感情移入してみようという気になる。
 本作でもっともリアリティが欠くと思えたのは学徒兵たちを攻撃する人民軍の隊長だろう。政治局との対立、学徒兵への共感、銃弾
飛び交うなかで平然と闊歩するかのような著しくリアリティを欠く役柄にはすこぶる違和感を覚えた。本編のなかの異分子としか思えかった。こういう存在を設定するのは韓国で受けるのかも知れないが、海外でのまっとうな批評家はそれを排するだろう。
▽2010年制作・121分。

映画の地球 非愛国的な米国映画『バトル・オブ・ノルマンディー』 ティノ・ストラックマン監督

映画の地球
 非愛国的な米国映画『バトル・オブ・ノルマンディー』 ティノ・ストラックマン監督

f:id:cafelatina:20170921043744j:plain

 表題のごとく米国を主力とする連合軍が敵前上陸を慣行したノルマンディ上陸作戦を主題とした映画。が、上陸に応戦するドイツ軍一大尉の視線から撮られたものだ。とテーマ的には興味津々だが明らかに予算不足が露呈し、リアリティを著しく欠く。B級戦争アクション映画に過ぎない。
 ただ、これを米国の映画人が敢えて制作した意図はなんだろう、とふと思って寸評したくなった。
 映画はロシア戦線における白兵戦からはじまる。反転攻勢に出たソ連軍はタイガー戦車を主力とする機動部隊の攻勢によって、ドイツ軍はジリジリと後退を余儀なくされてい た1944年春からはじまる。つまり、当時のドイツ軍はロシア戦線で苦戦つづきで本来、ノルマンディの防御線に補充すべき武器弾薬もロシア戦線に投入され、経験豊富な兵士たちもロシアに送り込まれることが多かったと暗示される。ノルマンディの防衛戦線はドイツ軍が当初、想定していた防衛能力が著しく損なわれ、かつ連合軍のかく乱作戦によって、連合軍の上陸はカレー海岸かもしれないという恐れから、兵力も分散されていた。さらに、ドイツ軍守備兵の主力はドイツ本国出身の優秀な兵士ではなく、占領したポーランド、ロシアからドイツ系男性を徴兵したすこぶる錬度の劣る兵士であると主張されていた。
 映画はまるで〈栄光〉の上陸作戦を毀損しているのだった。
 たとえドイツ軍 の装備が劣っていようと敵前上陸は守る側の数倍の犠牲が伴うものだ。それこそ特攻なのである。スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』ではその攻める側の消耗の激しさを、遺族がみたら目を覆いたくなるようなリアリズムで描いていたし、ロバート・キャパに、従軍カメラマンとして不滅の栄光を与えた、特攻する連合軍兵士の眼となって撮られた一連の写真でもその苛烈さはあますところなく証言されている。
 しかし、何故、6月6日、いわゆるD-dayの戦闘をわざわざドイツ側の視点から、ドイツ兵士の物語として、この映画を撮ったんだろう、撮る気になったのだろう、資金が提供されたのだろう、と素朴な疑問がつぎつぎと湧いてくる。B級戦争アクションと書いた。ならば、この程度の作品にノルマンディの浜で一度も引き金を引くこともかなわずに倒れ ていった親世代の 栄光を斜から見下ろすような映画をつくる必要があったかと思う。そして、米国はもとよりドイツで公開されても、ドイツ大衆が歓迎するとも思えない。私には非常に不合理な作品に思えてならない。妙な立場の映画であると記憶しておきたい。
▽2011年・102分。

映画の地球  Antifaとウェーザマン、米国の混迷のなかで 映画『ランナウェイ』 ロバート・レッドフォード監督

映画『ランナウェイ』ロバート・レッドフォード監督・主演・製作

f:id:cafelatina:20170920055340j:plain トランプ米大統領が有力候補として共和党の予備選を勝ち抜いていた時期かた極右派のあらたな台頭があった。それは旧来の白人至上主義を標ぼうする勢力を表舞台に引き出すかたちで急速に勢力を拡大してきたことは読者も良く知るところだろう。そして、そうした極右派へのカウンターとして、暴力を厭わない匿名の集団、日本では黒い衣装で顔も覆った集団として印象づけられているがAntifaを名乗る極左派ともいえる勢力の台頭を促した。米国は混迷を深めていることだけは確かだろう。

 Antifaの過激性をみていて私はベトナム反戦運動の昂揚期に米国社会に衝撃を与えた極左グループ「ウェザーマン」のことを思い出さないわけにはいかなかった。そのウェザーマンの活動家たちが高齢者となっている時期を描いた映画『ランナウェイ』のことを思い出した。以下は、だいぶ前に書いたものだが、あらためて掲載したいと思った。
 
 昨秋、ハリウッドを代表する俳優兼映画監督のロバート・レッドフォードが俳優からの引退を発表した。なんとなく、そんな予感を覚えさせたのが本作『ランナウェイ』における山林を走る心もとない足取りをみてからだ。それは渥美清さんが最後の「寅さん」映画でみせた動かない、腰を降ろしたシーンの多さをみたときに覚えた潮時のカットであった。
 レッドフォード、今年80歳になると思う。近年の映画への関わりを観察していると、映画を通して自分の生きてきた時代を批評しておこうという姿勢が顕著だったと思う。
 本作は2013年の作品だが、レッドフォードが主演、監督、制作の三役をこなした最 後の作品となるだろう。
 米国政治史のなかでいまも全貌が明らかにされているとは思えない過激派集団「ウェザーマン」。米国富裕層の出身の高学歴の子弟たちによって組織されたテロ集団だ。これを真正面から取り上げたということで注目せざるえない。
 米国で「ウェザーマン」を扱った映画が他にも撮られているかも知れないが、日本で公開されたのは本作のみだろう。レッドフォードの「ウェザーマン」に対する評価はけっして否定的なものではないように思える。はっきり主張しているわけではないが、ベトナム戦争後期の時代の熱狂が必然的に生み出した良心的なインテリの若者たちが活動を推し進めた結果、自らの生命を賭して過激化せざるえなかった。権力に追いつめられた彼らは地下活動を強いられるなかで、より少数精鋭主義に走り、やがて許されるべきではない爆弾テロを選択していった、という必然の流れがあっただろう、とレッドフォードはみているようにも思うのだ。でなければ、彼の映画人生の最晩期でわざわざ本作を制作した動機が弛緩するからだ。
 当時、米国は徴兵制度下にあった。ベトナムに介入すればするほど若者の死を生み出して いた状況のなかで反戦運動は若者自身が生き残るための切実な闘争であった。そうした若者の切実な声が次々と政府によってつぶされてゆくなかで、「ウェザーマン」は遵法闘争を捨て武装闘争に入ってゆく。彼らの敵は政府であり企業家であり、資本主義との戦いであった。キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが「ウェザーマン」のメンバーにニューヨークで、「この国で革命を、冗談は止せ」笑止、と諭されたらしいが、血気にはやる若者たちには通用しなかったようだ。 
 やがて、映画の発端となる活動資金を工面するため銀行強盗を慣行し、その過程で守衛を殺害してしまう。この事件によって「ウェザーマン」のコアな活動家たちはFBIの追及を逃れ、地下に潜伏、それは約30年の長きにわたった。
 彼、彼女たちは本名を捨て他人に成り代わって生活していた。その一人、女性活動家が闘争生活に疲れ自首したことによって潜伏中の全国に散っていた「ウェザーマン」たちの生活に波風が立つ。その余波を受けたひとり、いまは地方の穏健な弁護士を稼業とするジム・グライド(ロバート・レッドフォード)がいた。
 アクティブであった元活動家たちはみな初老に入っている。深く刻まれた皺にながい逃走生活の悔恨そのものが象徴されているようだ。
 ジムは、かつて同志であった女性と恋愛関係にあり、ふたりのあいだに女児がいた。その娘探し、そしてその母親探しも本作に奥行を与える要素になっている。
 哀しいかな人はみな老いる。自分たちの闘争すら大学の現代史の講義のなかでかろうじて生きる叙述となってしまった。学生たちは〈伝 説〉として興味深く聞くだけで、もはや「ウェザーマン」の主張に耳を傾ける者はいない。元活動家たちも成長する子どもたちの未来を思えば自ら旗印を下げるしかない。ということを言葉で直裁に語ればなんの説得力ももたないことを、老いた元活動家たちの生活をみせることで説得力をもたせている。各世代の葛藤として「現実」をそれぞれが問題を直視するとき、そこに感動の発芽がある。
 レッドフォードは、オリバー・ストーン監督とは違った視点から米国現代史をみているように思う。
 
 Antifaたちの活動の激化とともにまた米国ではウェザーマンの活動が再検証されるような気がする。これを制作した時期、レッドフォードはAntifaなどという組織が出てくるとは夢想だにもしなかっただろう。t

映画の地球 スポーツと映画 1 カーリング主題 『シムソンズ』、『素敵な夜、ボクにください』

スポーツと映画
 カーリング主題 『シムソンズ』(2006年)、『素敵な夜、ボクにください』(2007年)
 
 映画の効用の一要素に楽しく、興味津々、観客を飽きさせず、まだ広く認知されていたないスポーツ競技のルールや、当該競技に掛ける選手たちの思い、発情、苦労、あるいは競技をめぐる家族や友人、社会の関わり、認知度などを90分前後のなかで収めてくれるありがたさだ。退屈なルールブックなど開く気にならない人も映画ならナガラ的に勉強させてくれるところが非常に我が輩には最適なツールである。
 日本人がカーリング、という冬のスポーツがあることをなんとなく認知したのはビートルズ最盛期の映画『ヘルプ!』に登場したことだろう。たぶ ん、なんだアレは、という雰囲気であったと思う。そのストーンを滑らすビートルズの面々も手にするのがはじめてという感じて、競技に興じるというのではなく、まったく不真面目に遊び呆けているという感じであおれは描かれていた。だから、映画をみたひとも記憶の片隅にしばらく留めたけれど、やがて忘却されたということだろう。
 それがにわかに日本でも脚光を浴びたのは、1998年長野冬季オリンピックに開催国特権で全日本選抜女子チームが出場し、TVで実況中継されてからのことのようだ。当時、中米グァテマラにいたから筆者にはまったく臨場感はないがニュースではみていた。中米諸国では冬季はおろか夏季オリンピックへの関心もほとんどない。中米地域で関心度が少し高いの は、かつて主催したことのあるメキシコぐらいだろうが、それも首都圏ぐらいだろう。1966年に開催したときのモニュメントは数多くいまも遺るが、フツーのメキシコ人にとってサッカーW杯を二度、主催したことの方がはるかに重要なメモリアルである。メキシコ最大の収容人数を誇るメキシコ市南部のアステカ競技場も、五輪のために建造された創建時13万を収容した巨大スタジアムだが、ここも2度のW杯の決戦の場として記憶されている。
 閑話休題。長野大会ではじめて公式種目となったカーリング北日本地方に向いたスポーツとして認知されると、たちまち幾つもの同好会、クラブなどが族生したようだ。しかし、それも日本の経済力という後押しがあったからだろう。冬季スポーツは 例外なく練習施設そのものに大変、金がかかる。経費が掛かるだけでなく自然を著しく毀損することが多い。
 さて長野大会でカーリングもなかなか面白い、北国ではとっつきやすいスポーツと思われてしまった(と否定的に書いているのではなく、とっかかりは得てしてそんな動機からだ)。
 日本の2本のカーリング主題の映画は、それぞれ動機が少々、いかがわしい、と言って悪ければ、安易な踏込みから始まる。

f:id:cafelatina:20170916063413j:plain

シムソンズ』は、2002ソルトレイク大会に出場した実在の女子チームをモデルとして青春ドラマに仕立てた、やわらかいスポ魂ドラマ。北海道常呂町の女子高校生たちがルールも知らずにストーンを氷上に踏み出すところから描かれている。しかし、この映画、女子 高校生たちの話ということで、スクリーンに若さが弾けるのは良いがうるさい。『素敵な夜……』もそうだが、まったくの素人が競技にのめり込んでゆく過程が描かれることで、観る側もともにルールを把握し、競技特有の練習方法や苦労があることがつまびらかにされて、その点、なかなか教育的効果がある。しかし、それが少々、解説調になってしまう分だけ、アート性、いやドラマ性は損なわれるわけだが、もとよりそんな高尚な時点から撮られていないので、そのあたりは不問。

f:id:cafelatina:20170916063440j:plain

 『素敵な夜……』などは、かなり動機が不純。売れない女優いづみが、韓国の人気俳優と錯覚して一夜を共にしてしまう、というところから話がはじまるのだ。その韓国人はカーリングナショナルチームに迎えられる ほどの実力者だったという大変、ご都合主義的、安易な設定から、いずみがカーリングへののめりこんでゆく発条となる。監督は、『櫻の園』『12人の優しい日本人』を代表作とする実力者となっているが、『素敵な夜……』では馬脚を露呈しているとしか思えない。だいたい『櫻の園』は木下恵介の往年の名作『女の園』に啓示を受けたものだろうし、『12人の……』は誰が見たって社会派の名匠シドニー・ルメットの『十二人の怒れる男たち』の翻案だろし、いいとこ取りの監督という評価しか献上できない。たぶん、韓流ブームとかの影響圏から韓国の人気男優キム・スンウが採用されたのだろうが、あまりにも安易な物語。ただし、カーリングという競技への理解だけは確かに深まるのであった、オワリ 。
シムソンズ』(佐藤祐一監督・2006)は、2002ソルトレイク大会に出場した実在の女子チームをモデルとして青春ドラマに仕立てた、やわらかいスポ魂ドラマ。北海道常呂町の女子高校生たちがルールも知らずに、やろう、と踏み出すところから描かれている。しかし、この映画、女子 高校生たちの話ということで、スクリーンに若さが弾けるのは良いが少々、うるさい。『素敵な夜……』もそうだが、まったくの素人が競技にのめり込んでゆく過程が描かれることで、観る側もともにルールを把握し、競技特有の練習方法や苦労があることがつまびらかにされて、その点、なかなか教育的効果がある。しかし、それが少々、解説調になってしまう分だけ、アート性、いやドラマ性は損なわれるわけだが、もとよりそんな高尚な時点から撮られていないので、そのあたりは不問。野球やサッカー映画などはルール説明などするシーンがない分、ドラマ性を追求して澱みないわけだ。
 『素敵な夜……』(中原俊監督・2007)のカーリングに手を染める動機はまったく不純。売れない女優いづみ(吹石一恵)が、韓国の人気俳優と錯覚して、リタイヤしたカーリング選手(キム・スンウ)と一夜を共にしてしまう、というところから話がはじまるのだ。その韓国の青年はナショナルチームに迎えられる ほどの実力者だったという大変、ご都合主義的、安易な設定から、いずみがカーリングへののめりこんでゆく発条となる。監督は、『櫻の園』『12人の優しい日本人』を代表作とする実力者となっているが、『素敵な夜……』では馬脚を露呈しているとしか思えない。だいたい『櫻の園』は木下恵介の往年の名作『女の園』に啓示を受けたものだろうし、『12人の……』は誰が見たって社会派の名匠シドニー・ルメットの『十二人の怒れる男たち』の翻案だろう。いいとこ取りの監督という評価しか献上できない。たぶん、韓流ブームとかの影響圏から韓国の人気男優が採用されたのだろうが、あまりにも安易な物語。ただし、カーリングという競技への理解だけは確かに深まるのであった、オワリ 。