映画の地球 音楽の気流 そして書籍の宇宙

智慧の水球に揺蕩うように生きてきたわが半生。そろそろ御礼奉公の年齢となったようで・・・。玉石混淆、13年の日本不在のあいだに誉れ高きJAPONへの憧憬を募らせた精神生活の火照りあり。

映画の地球 プーチン独裁したのロシア映画 5 t.A.T.uのポップスをBGMにしたチェチェン紛争映画『厳戒武装指令

t.A.T.uのポップスをBGMにしたチェチェン紛争映画『厳戒武装指令』ニコライ・スタンブラ監督

4988013695108_1L.jpg 冷戦末期、ソ連アフガニスタンに介入して混迷し、共産党独裁の崩壊に繋がった。
 アフガニスタンの親ソ派政権を維持するための武力介入は、ソ連を疲弊させた。
 タタール人の侵入、ナポレオンのモスクワ占領、ナチ・ドイツ軍の侵攻に対する戦いは基本的に平原での戦いであった。勇猛果敢なコサック兵も平原での騎馬戦に長けていた。しかし、アフガンでの戦いは、険しい山岳地帯の地勢をよくしるゲリラ戦のなかで苦闘した。
 ソ連軍には山岳地帯での戦いに対する教典はあっただろうが、実戦から学ぶことは少なかった。ソ連圏を大戦後、ほどなく離脱したチトー大統領のユーゴスラビアソ連が介入できなかったのも、地上戦では山岳戦に長けたチトー軍との戦いをい避けたからだ。
 アフガンの戦いでソ連軍は確かに学んだ。多くの若い兵士たちが血と肉を飛散させて山岳戦の要諦を学んだのだ。代償はあまりにも大きかった。甚大な兵士の死は、やがてソ連そのものを崩壊させたのだ。

 いま、中央アジア諸国の墓地を訪れると、アフガン戦争で戦死した若い兵士たちの墓標が林立しているのをみることができる。彼らの墓標を確かめるために訪問したわけではないが、中央アジア諸国に散在する大きな墓地にはたいてい日本将兵の共同墓地があり、その墓参に訪問すると、そこに若い青年像を墓碑に複写した墓が林立して目につくのだ。
 日本将兵の墓とはいうまでもなくシベリア抑留時代の強制労働で亡くなった無念・無慚と望郷の涙のなかで病み、あるいは飢えのなかで死んでいった人たちの墓である。近くへいけば、それに手を合わせるのは日本人の義務と思う。
 一度、ウズベキスタンの首都タシケント郊外の墓地で、日本の墓参ツアーに出会ったことがある。先日、安倍首相が詣でた墓地だ。
 その墓地には日本将兵とおなじように抑留生活で命を落としたドイツ軍将兵の墓がある。アフガン戦争で命を落とした若い兵士の墓もある。けれど、ドイツ軍将兵の墓に目を留める日本人はいないし、また阿部首相も気がつかなかっただろう。ましてやアフガン戦争で戦死した若者の墓など一顧だにされない。そういう安倍首相の姿、日本人墓参団の行動を地元のひとたちは注意深くみていることを忘れてはならない。

 中央アジアイスラム国から多くの若者がアフガンの戦場に狩り出された。戦場まで近いということ、同じような風土に生活していること、そしてアフガンのタジク語に通じている者が多いことも理由だった。
 しかし、ハリウッドがベトナム戦争の矛盾、非人道性を早くから映画化したようにはソ連のモスクワとレニングラード(現在サクトス・ペテルブルグ)の二大撮影所はアフガンの負け戦を撮らなかった。
 共産党独裁下ではいうまでもなく表現の自由は封殺され、負け戦さを描くなどもってのほか、という時代だった。映画人は沈黙していた。それがソ連映画界だった。

 しかし、チェチェン戦争では早くから映画が撮られた。政府に批判的な視点からも撮られている。
 アフガン戦争のように封印するのではなく、チェチェン独立過激派のテロを描くことによって、戦争の正当性を訴えられるとおもっているのかも知れない。前に取り上げた『大統領のカウントダウン』などは、その典型だろう。
 〈チェチェン〉はロシア映画に繰り返し描かれることになる。ベトナムが米国人の最大の関心事になったように、〈チェチェン〉はロシアの安全・平和を語る際のキーワードになったからだ。

 ソ連時代、欧米はもとより日本でも〈チェチェン〉を知るものはなかったが、ソ連崩壊後、にわかにロシアでもっとも有名は自治共和国として浮上した。その内戦の苛烈で・・・。
 だから、〈チェチェン〉を記号としてロシア映画を観ていくとプーチン政権下での表現の自由、検閲の許容度が理解できる。あるいは、チェチェンに対する政策の変化、あるいは連邦内の少数民族に対する政策の変容もなんとなくわかってくる。
 
 チェチェンの戦場では、かつてアフガンで戦友だったロシア人とチェチェン人が死闘を交えるということになった。そんなエピソードが語られるのが本作である映画に(2002*原題「前進 突撃」 )があった。日本では劇場未公開ままでVHS、そしてDVDでの発売となったため知る人が少なし、まともな批評は日本で書かれなかった。一部、戦争映画おたくがB級アクション扱いで紹介していたぐらいだろう。この映画はまず、プーチンが第2代ロシア大統領に就任して3年目に入った時期に制作されている。

 ロシア軍に徴兵され空挺部隊に志願した孤児院出身の主人公サーシャのチェチェンでの戦いが縦軸として流れ、そのあいだに幾つかの挿話が挟み込まれ、ロシア現代史の歪みが垣間見えるという仕掛けだ。サーシャの戦争という視点からだけみればB級戦争アクションとなるが、むしろ、挿話のほうが興味深いのだ。
 たとえば、映画にアフガンの戦地で同じ釜の飯を食った旧ソ連軍兵士がいま、チェチェンの戦場で敵対しているという現実がある。ソ連軍がアフガンから完全撤退を完了したのが1989年。その5年後には第一次チェチェン紛争がはじまっている。ソ連崩壊直後、エリツィン大統領の時代だ。若き兵士時代、アフガンで戦友だった男たちが、数年後にチェチェンで敵同士となるのはきつい現実だろうし、それは悲劇だ。実際にそんなことはあったはずだ。
 映画はチェチェン人の武装勢力を決して唾棄すべき存在としては描いていない。むしろ、チェチェンの混乱に乗じて入ってきた外国籍イスラム過激派組織の存在を指弾している。
 また、サーシャの戦友ウラジミールがチェチェン武装勢力に捕獲された後、脱走中の戦闘で戦死するのだが、その父親が息子の安否を案じて、ふと過去を振り返るシーンがある。
 「チェコスロヴァキアの動乱を国は、社会主義を崩壊させようとする帝国主義の陰謀だと教えられ、チェコ人を武力弾圧した。しかし、それはチェコ民主化運動を潰したことだったことを後で知った」と。
 それを聞かされるウラジミールの妹は、「チェコではそんなことがあったの」と世代間の位相が象徴される。
 海外に出てゆく映画で、ロシアがチェコでの“犯罪”を認めた例は少なくとも筆者にははじめて知る。
 チェチェンでの戦闘を描きながら、ウラジミールの妹、その友人たちが享受する青春は、t.A.T.uのポップスをBGMにして描かれる。それもまたロシアの現実であった。

映画の地球 ラテンアメリカの映画 8 映画『ボーダータウン ~報道されない殺人者』グレゴリー・ナバ監督

映画『ボーダータウン ~報道されない殺人者』グレゴリー・ナバ監督
映画 ボーダータウン

 米国の最南端、メキシコ最北端がせめぎ合うところ、そこはボーダー、国境だ。3141キロにおよぶ長大な距離だ。
 ちょっと想像できない距離だと思うが、日本列島をまず思い浮かべていただきたい。北海道の北の端・稚内から直線距離で確か台湾に届く、いや縦断してしまう距離であったと思う。そして、そこは世界最大の富裕国USAと、一握りのとてつもない資産家と膨大な数の貧困者が住むメキシコが接する場所である。経済的矛盾が牙をむき出して拮抗している場所だ。
 映画はその経済格差が生み出したマキラドーラの工場ではたらく未熟練の低賃金労働の女工さんたちを襲う惨劇が主題だ。マキラドーラとは労働現場の治外法権、メキシコであってメキシコの国内法が発動されない地帯といえる。だから、経営者側はいってみれば、やりたい放題となる。
 資本は米国や西欧諸国、そして日本や韓国など先進諸国の大企業だが、労働力はメキシコの廉価であり余っている地方出の若い労働者。国境の南側に立ち並ぶ工場では家電製品が生産され米国で大量消費される。米国の快適な暮らしを演出する電化製品は、劣悪な労働現場で生産されているものだ。
 まず、労働組合もなれけば社会保障も完備しているとはいいがたい。雇用側は労働者を使い捨てとしか思っていない……というブラックな部分はこの映画では真正面から扱われていないが示唆はされている。雇用側は女工さんをロボットより使い勝手の良い“機械”としてしかみていなのではないか。つまり彼女たちの生命を軽視される。
 そんな労働風土のなかで連続して起きているのが、女工さんたちを標的としたレイプ殺害事件だ。
 メキシコ側のフォレスで頻発し、その犠牲者はメキシコ警察の発表では約500件。それだけでもすさまじい数だが、警察当局の意識的怠慢は憎むべき犯罪を放置していると言わざる得ない。犠牲者の実数は闇に葬られ、人権組織などによれば5000件を超えるというのである。警察が認めた数の10倍であり、いまも犯罪は消えていない。
 この事件の真相をレポートしようと米国からやってくるローレン(ジェニファー・ロペス)と、地元で事件を追う新聞記者ディアス(アントニオ・バンデラス)に、レイプされ九死に一生を得たメキシコ・オアハカ州出身の若い先住民女性エバ(マヤ・サパタ)が絡んで犯人たちを追及・告発するというサスペンス仕立ての映画だが、硬派のナヴァ監督の意図は社会告発であることは明白だ。南北の経済格差であり、資本の悪辣というものだろう。デビュー作の『エル・ノルテ』以来、『ラ・ファミリア』、『セレナ』とラテンアメリカ諸国の移民・難民、経済問題を米国ヒスパニック社会のなかから発信しつづけたナバ監督がマキラドーラを背景とする一連の殺人事件に無関心でいられなかったのは当然だろう。
 また、本誌の読者ならナヴァ監督がスクリーンを通してチカーノ音楽、さらにラテンアメリカ音楽の現況を伝える役目すら担ってきたことも知るだろう。
 ジェニファー・ロペスが歌手として本格的な活動を展開するきっかけとなったのはテハーノ・ポップスの女王セレーナの悲劇的な生涯を描いた『セレーナ』に主演したことがきっかけだった。彼女は、その前に『ミ・ファミリア』でメキシコ先住民出身の女性役を演じている。本作にもコロンビア出身で、撮影当時、ラテン世界のアイドルのひとりであった人気歌手ファネスが登場し、ヒット曲をマフィアの内輪のパーティーで歌うという場面がある。そのステージをみてエバが狂喜するシーンがあって、それは役というよりマヤ・サパタの感激そのものを刻印しているようで面白かった。

 ジェニファー・ロペスが演じるローレンはメキシコの不法越境者の子という来歴を封印しキャリアを積もうとしているジャーナリストである。そんな彼女が何故、米国でも有数の新聞社に勤めることができたかというディテールは完全に削られている。ナバ映画ではそういうそぎ落としが良くある。そんなローレンは女工のエバと行動をともにするなかで、越境に失敗していれば自分もマキラドーラで働いていたかも知れないし、レイプされ殺される可能性すらあった、と思う。それはすこぶる現実的な想像だ。エバを演じたマヤ・サパタは日本での公開はないが、メキシコではヒットした青春映画などでおなじみの新進女優で、映画は彼女を採用することでメキシコでの注目されることを計算しているだろうし、連続殺人事件への関心を促していることは確かだ。

 ナバ監督は、一連の事件を大局的にマキラドーラの矛盾に満ちた搾取構造に起因すると語っているように思うのだが、ではなぜレイプされ、ときに猟奇的に殺害されるという犯罪の闇は解明されない。メキシコにはこの事件をめぐってさまざまな噂が渦巻いているといってよいだろう。そのなかには惨酷、おぞましいものまである。映画はそれはまったく語っていない。そのおぞましさは今日、メキシコにおける麻薬戦争による犠牲者の姿に通底するものがあるが、いまははっきりと確証があるわけではないので書けない。しかし、メキシコではしきりにうわさされている凄惨きわまりないものなのだ。
 制作前、撮影中にもスタッフは脅迫を受けていたといわれるが、その圧力によって、糾弾の矛先がすこし鈍磨したのかも知れない。 2008/9記

映画の地球 アフリカを描く 4  セネガル*映画『サンバ』エリック・トレダノ監督 移民問題は先進国の映画に潤沢な滋養を与えている

移民問題は先進国の映画に潤沢な滋養を与えている
 映画『サンバ』エリック・トレダノ監督
サンバ

 ルーブル美術館エッフェル塔周辺……外国人観光客が行き交うパリ界隈、ひとめでアフリカ系と判る男たちが、見栄えもせず造作もぞんざいな真鍮製のエッフェル塔のミニチュアをむき出しにして観光客に売っている。きょうび、こんなものをスーベニールにしたら、ご本人の審美眼が問われるだろう。
 寄ってくる彼らに、もっと工夫を凝らせと叱咤したくなる。同じようなモノで競争していたら値下げ競争を自ら課しているようなものだ。自分で新商品を開拓しろ、と言いたくなる。それこそベニン王国様式で造形し、ブラックアフリカのセンスでディフォルメしてみたらと彼らの思考回路を混乱させたくなる。
 しかし、考えてみれば、彼らは、かつても今も、そして未来も「観光客」として越境することはないだろう。とすれば自分を豊かな「観光客」にと立場を置き換えてみることができない。いっけんして彼らは不法滞在者、まともな職にありつけないビザなしの不法越境者、とその服装、立ち姿からそううかがえる。
 『サンバ』の主人公サンバ(オマール・シー)は、そんな街頭商人のなかに混じっているようなアフリカはセネガル出身の青年だ。主演のオマールは、同じ役柄、不法越境労働者役を演じた『最強のふたり』で好演、ハリウッドへの進出もはたし上昇気流に乗っている。そのオマールが『最強のふたり』の監督と再度、タッグを組んだのが本作。今回は、人気女優シャルロット・ゲンズブールと迎え商品性もグレードアップさせての一編。
 ビザをもたないサンバは空港近くに設けられている出入国管理事務所の施設に強制収監されてしまう。いまや先進諸国の都市にはどこにでも存在する施設だ。東京にもあるが顕在化しない。日本にも同じような問題があるはずだが、オーバスティの不法滞在者たちが映画に登場し、自ら自己主張することは稀れだ。けれど、フランスはもとよりEU諸国では繰り返し不法滞在者の問題がスクリーンに登場する。ハリウュド映画なら麻薬密売からみの作品のなかでは必ずメキシコやコロンビアからの越境者が登場するのが定番。不法越境者はいまの時代を写す鏡なのだ。その鏡をもたない日本映画はある意味、歪つな存在だと思う。
 東京のド真ん中、トルコ大使館前でトルコ人とクルド系トルコ人の衝突があったことは、まだ記憶に新しい。中国人観光客の多さあけに目を奪われてはいけない。観光ビザで入国した中国人が多数、の不法滞在者としてどこかで不法労働しているという現実もある。日本国内にもさまざまな問題が存在するということだ。

 サンバは収監された施設のなかで、かつて人材派遣会社で有能なエリートとして働いていたアリス(シャルロット・ゲンズブール)と出会う。アリスは仕事に疲れ、不眠症など合併症状を起こして現在はリハビリ中、その治癒行為として不法移民の救済活動にボランティアとして関わる。その最初の相談相手がサンバであった。
 親身に、人権思想とかいった高邁な理想からではなく、すこぶる庶民的感覚の人助け精神だろう。理論武装していないだけ情にほだされるということだ。相談に乗っているうちに、いつしか、サンバの真摯な姿に魅せられ、やがて恋に落ちるというパターンは常道。そのおおらかな公道を語るうちに、サンバを通してみえてくるヨーロッパ諸国の不法移民問題が日常光景として映像化される。それも『最強のふたり』と同じ構図だ。 
 こうした作品を見ていると、パリで瞥見した街頭スーベニール商の男たちにもそれぞれ過酷な越境の旅譜があるのだろうと思う。
 移民たちはより稼ぎのよい経済力のある国に流れる。シリア難民たちはドイツへ入りたがった。ドイツではその流入を巡って政権を揺るがす問題が生じた。英国のEU離脱問題の大きなファクターはそうした移民の流入問題があった。
 サンバの友人となる自称ブラジル人ウィルソンが、やがてサンバからアラブ系のイスラム教徒であることが暴かれる。ウィルソンはブラジルからの越境者であることを自称することによって、フランスに根強くある反イスラム感情を避けようとしているのだ。そんな人間模様が描かれてゆく。
 こみ入った語りの複雑さはないストレートな作品だから分かりやすい。英国で移民問題をたびたび映画化しているケン・ローチ監督流の社会批評の鋭さ、過敏さは希薄。ベクトルがまったく違うところで制作されている。善い悪いでいうのではなく、さまざまな描き方があるということだ。日本では、その手法論を語れないほど作品事例が少ないということだ。これは単純に日本映画の社会性の稀薄さを意味する。  2016-09記

映画の地球 これから公開 自ら解毒する性根のない作品 アルゼンチン映画『笑う故郷』 ガストン・ドゥブラット監督

自ら解毒する性根のない作品 アルゼンチン映画『笑う故郷』 ガストン・ドゥブラット監督

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 原題はスペイン語で「名誉市民」だが、邦題は何故か意味不明の「笑う故郷」に。本作は「名誉市民」の方が象徴的にふさわしいし、反証的なアイロニーを形成すると思う。昔、ラテンアメリカの小国を舞台にしたグレアム・グリーン原作の『名誉領事』という映画があったが、スクリーンの空間のなかで表題に実質を与えて印象を残す効果があった。表題は作品の顔であろうと思うから、もう少し吟味して欲しいと思う。
 さて、その名誉市民(むろん創作だが)はノーベル賞作家ダニエル・マントバーニ(オスカル・マルティネス)である。アルゼンチンは首都ブエノスアイレスの近郊、といって も同国の距離感における近郊であって、日本でいえば東京と北関東の小さな町ほどの距離感だろう。この距離感は本作にとって重要な設定で、首都の政府・官僚たち、アカデミズムから一定の距離感を保つことでできる設定である。だから、都会の上品なエスプリにどっぷりと浸っていない生地の野卑がある。田舎町のお偉方の反アカデミックな風土を象徴し、そこに自ら闖入してしまった西欧の知性が蒙る不快感がザラザラとした不快なサスペンス風の苦い効果を与えている。
 ノーベル賞受賞後、一連の祝典行事に追い回された後、次第に飽いて辞退、欠席と引きごもりがちとなるマントバーニ。それでも日々、世界各地から参加、出席を乞う招待状を届く。むろん、それに色よい返事は出さない。ある日、儀礼的な招待状の一束に30年以上も前、出奔したまま爪先すら向けていない故郷サラスの市長から「名誉市民」の称号を授与し たいので帰郷を求める招待状が届く。最初は見向きもしない作家だが、ふと思うことありといった風情で、「この機会に一度、帰郷してみるか」と思い立つ。30年ぶりということは、彼は軍事独裁下の母国を後にしたことが知れる。
 帰郷し市長に迎えられ、作家は開口一番、自分のしたくないことをあれこれ述べる。その部屋にはエビータことエバ・ペロンとペロン大統領の大きな肖像画写真が掲示されていて、市長がペロン党員であることが分かる。市長が田舎のポピリストであることは、それでラテンアメリカの市民なら誰でも納得する表象だ。
 「名誉市民」の称号の授与式、返礼としての講演、消防自動車にのってのパレード、市民美術展での名誉審査員・・・とまぁ、型通りのスケジュ ールがこなされてゆく。しかし、作家を取り巻く空気はしだいに変わってゆく。まず、彼の文学がサラスを舞台として、市民を創造的再構築して描いているのだが、地づきの市民がアレは誰だと推測して、それぞれ勝手な解釈を生み出す。作家にとっては迷惑な話だが、市民にとっては文学ではなく、モデル小説として読みまれている。
 やがて、作家の知性は、その良心に忠実であろうとすればするほど市民との齟齬を生んでゆく。そして、最後は石もて追われるように町から放逐され、それどころこか誤殺されてしますのだ。で、これで終わればルイス・ブニュエルの毒を引き継ぐ才能と監督を褒めただろう。ところが、おそらく、まったく無駄な独り悦に浸るように一場を作る。
 作家の新作発表の記者会見の場である。そこで、映画で語れてきたことが「新作」の内容だと話は堕ちる、落ちるではなく堕落の堕ちる、である。この記者会見の一場で、この作品の毒はみごとに解毒されてしまう。お話なんですよ、〈現に私はこの通りピンピンしている〉と腰が引けている。ブニュエルならこんな不手際をしないだろうし、発想すらしなかっただろう。
 それにだ・・・ノーベル賞受賞作家とあろうものが、自身の「受賞」をサンプリングして文学を描こうというさもしさをもつわけがない。これは大衆作家のセンスだ。自らのノーベル賞受賞を物語って文学にできるのは、『ドクトル・ジバゴ』のパステルナークと、『ガン病棟』など一連の長編小説によって受賞したソルジェニーツィンぐらいなものだろう。二人ともソ連政府の圧力で国外に出られず、授賞式への参加はおろか、受賞作すら国内刊行ができなかった。彼らなら受賞の日々を語るだけでも貴重な証言文学を書いただろう。
 本作が原題の「名誉市民」ではなく、軽味の「笑う故郷」とされたのも、実際、この作品の性根のなさに対する批評ではなかったのかと思ったりする(真実は知らないが・・・)。
 
▽9月、岩波ホールで公開。 2016年・アルゼンチン映画。117分。

映画の地球 核戦争と映画 3 映画「トランボ」 ジェイ・ローチ監督

映画「トランボ」 ジェイ・ローチ監督

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 *「核戦争と映画」のカテゴリーに入れるのは少々、無理があるが、冷戦初期の゛熱戦”下における「赤狩り」時代を描いた象徴的なポリテック主題映画として、ここで語っておきたい。

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 筆者にとってトランボことダルトン・トランボの名は、彼が1939年に発表した小説「ジョニーは銃を取った」の原作者であり、1971年、ベトナム戦争の最中に唯一の監督作品となった『ジョニーは戦場へ行った』(邦題)を撮ったハリウッドの良心として記憶される。
 四肢はおろか姓名すら一個の爆弾で失った若き負傷兵の物語は、第二次大戦直前に準備され、米国政府が当時、志願兵募集のキャッチフレーズとしていた「ジョニーよ銃を取れ」に対する反論として書かれ刊行された。そのためトランボは当局のブラックリストに載せられ、小説も発禁にされた。トランボの名作は、ドイツの反戦文学の古典的名作「西部戦線異常なし」の米国版といってよい。
 そうしたトランボの政治的姿勢は、大戦直後のいわゆる「赤狩り」のなかで筆頭に指弾されることになる。そして不当に逮捕され、禁固刑の実刑を受ける。釈放後も、その思想信条をいささかも曲げず、ジョン・ウェインらに代表される右派と対峙、ハリウッドの良心として筋を通した才能だ。

 むろん本人は米国の民主主義を守護する愛国者として行動しているのだが、「反米主義者」との汚名をあびせられ、仕事も奪われる。しかし、食うために働かなければならない、才能を安売りしてB級映画の脚本も手がける時代もあったし、匿名で多くの名作の原案・脚本を書きつづけた。ちなみにその作品名をあげると、オードリー・ヘップバーン主演『ローマの休日』、カーク・ダグラス主演『スパルタカス』他、『脱獄』『パピヨン』など数多くの名作、ヒット作が並ぶ。
 そんな名脚本家の後半生を描いたのが本作だ。必然、多くの著名人が登場することになる。いや、そうした著名人を描かないと映画にならない。多くの人の「名誉」に関わる題材を扱うということで、ハリウッドの長い歴史のなかでも重要な挿話であったトランボの物語を映画化するのは至難のことと思われてきた。トランボ死後、40年の歳月を待たなければならなかったのは、そうした事情があると思う。

 大戦後の熱い「冷戦」下で起きた「赤狩り」、それはデマゴギーの旗振り役マッカーシー上院議員が煽動したことでマッカーシズムとして知られるが、本作では、そのマッカーシ議員は描かれない。米国を追放されたチャップリンのことも取り上げられていない。しかし、象徴的にソ連のスパイとして告発され、無実の罪で処刑された科学者ローゼンバーク夫妻のことはニュースとして映画として登場する。
 ともかく「赤狩り」の狂熱によって不当に命を奪われた人、職を奪われた人、家族の崩壊、一家離散、亡命などさまざまな悲劇が繰り返された。この渦中にあった著名人の名をあげてゆくだけで数ページになる。
 映画は、この政治的狂熱をトランボという稀有な才能と、その近しい友人、仕事仲間に収斂させて描いた映画だ。その手法はよく理解できる。しかし、トランボの不退転の強さ、その硬軟取り混ぜての抵抗精神を、主演のブライアン・クランストンは表現できたかというと疑問符をつけねばならない。“軟”の傾きが大きいように思ったからだ。それは監督の意図でもあっただろうが、映画に登場し、それなりの役割を担うエドワード・G・ロビンソン役のマイケル・スタールバーク、ジョン・ウェイン役のデヴィッド・ジェームズ・エリオットまでが軽き存在にみえてしまう。
 思想信条の自由という民主主義の根幹に関わる問題をトランボの生き様に托して描こうという前提があったはずだろう。強いて深刻がるそぶりはないほうがよいし、わざとらしくあざとくもなるだろう。しかし、こういう作劇ではないだろうと思わせる軽さに私は終始、違和感を抱きながらみていた。

 時代のおおきなうねりのなかで吞み込まれてしまう、せき止めようのない政治的な粗暴は何時の時代、どこの国でも起こりえる。いま、移民排斥をレイシズムの語調で訴え、特定民族を忌避する大統領候補を本選に送り出した米国から、こうした映画が送られてきたことはすこぶる暗示的ではある。  2016-06記

映画の地球 核戦争と映画 2 映画『グッドナイト&グッドラック』ジョージ・クルーニー出演・脚本・監督 

米国、“赤狩り”時代に報道の自由を守り抜いた男を描く映画『グッドナイト&グッドラック
  ~ジョージ・クルーニー出演・脚本・監督 2005
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*「核戦争と映画」のカテゴリーに入れるのは少々、無理があるが、冷戦初期の゛熱戦”下における「赤狩り」時代を描いた象徴的なポリテック主題映画として、ここで語っておきたい。

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 先日、7月公開映画『トランボ』について書いているとき、2005年の旧作『グッドナイト&グッドラック』を思い出したので忘れないうちに、この機会を利用して書いておこうと思った。


 1950年代、冷戦下の米国で起きた狂気じみたマッカーシズム。人権弾圧、表現活動への圧迫が、愛国主義の名の下に「正義」として“赤狩り”が行なわれた。そのなかで敢然と、醒めた目で闘った一人が映画『ローマの休日』など、いまではハリウッドの古典となった幾多の名作のシナリオを書いたダルトン・トランボであり、映画『グッドナイト&グッドラック』の主人公エド・マローデヴィッド・ストラザーン)であった。
 トランボに比べるとマローの日本での知名度はほとんどない。CBSテレビの看板ニュースキャスターとして、人気番組『シー・イット・ナウ』をもっていたが、現在のインターネット時代のようにリアルタイムで米国のTV番組を観ることは不可能だったから、知られていないのは当然だ。米国では“放送ジャーナリズムの父”として名を遺す才能であったとしても。
 ジョージ・クルーニーが長年、温めていたテーマであったらしく、脚本を書き、出演もし監督も兼ねた。クルー二ーは、マローの不退転の立場をサポートするディレクター役で登場する。『トランボ』では描かれなかったマッカーシー上院議員が本作ではニュースフィルムのなかでしばしば登場する。それらはみなモノクローム映像ということもあってか、本作もそうした記録フィルムとの同化、同時代性の雰囲気を醸し出すためモノクロームとなっている。マッカーシー議員が映画のCBSスタジオのTVに映し出され、リアルタイムの物語として描かれる演出はクルーニーのしたたかな才能だろう。
 演出も抑え目で、マローを英雄的に描くことなどしていないし、当時のルーティングワークのなかで淡々とことが運ばれてゆくなかで、陰に日向に、当時の狂信的な世論が、マローと、その仕事仲間を圧迫してゆく沈うつな雰囲気が描かれる。
 マローが淡々と読み上げる原稿は、それ自体、マッカーシー議員に対する批判であり、抵抗であり、明日には自分の首も飛ぶかもしれないという状況のなかでのヒロイックな行為でもある。しかし、映画はそのあたり声高く描かない。番組の終り、マローはいつでも素っ気なく、「グッドナイト&グッドラック」と簡単な挨拶を視聴者に送っていた。それが本作タイトルの由来だ。

 平常心で権力悪と闘う・・・・そういうジャーナリスト、そんなジャーナリストを支えるスタッフ、マスコミ企業の存在はいつの時代は必要だろう。TV界におけるニュースキャスターの影響力は米国では日本と比較にならないぐらい大きい。つまり日本のソレは与えられた原稿を消化するだけで、批判してもわが身に圧力のかかる心配がない芸能人あたりを叩く程度の言辞はあったとしても、政治的な発言にはいつもグラデーションのさじ加減に留意しているということだ。

 クルーニーの映画のなかではもっとも地味な映画だと思うが、『トランボ』の傍系資料として観て欲しい作品だ。  2016-06記

映画の地球 アフリカを描く 3 *シエラレオネ『ブラッド・ダイヤモンド』エドワード・ズウィック監督

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 2006年、レオナルド・ディカプリオは、本作でアフリカの貧しい白人入植農民の息子、長じて傭兵崩れのダイヤモンド密売人となったアーチャーを演じてオスカーの主演男優賞の候補になっている。

 主題は、先進国の宝飾メーカーがアフリカの小国の紛争を利用して不当に利ざやを稼ぎ、紛争の混乱のなかで教育もまともに受けられない少年たちを兵士に仕立て上げ内戦を泥沼に導いている北の資本家たちへの糾弾ということになるだろう。必然、アクション・シーンが多くなるが、背景説明が〈現在〉の時点からの台詞だけの回顧となってしまって、その辺りの掘り下げは浅い。
 アフリカの土地にしがみつかなければ生きてはいけなかった貧しい白人植民者の息子という出自。その植民の地が独立した際、被征服地の先住の民の怒りは憎悪となって沸騰し白人植民者に向けられ、アーチャーの父母は惨殺された。かろうじて南アフリカへ逃避したアーチャーは、アパルトヘイト下の軍隊でゲリラ戦のノーハウを仕込まれ、冷戦下のアンゴラで大義のない戦いのなかで人間性を喪失してゆく。二重にも三重にも厭世観にとらわれている青年の役だ。

 ダイヤモンドの密売に手を染めるのは、それが命がけの仕事、という緊張感と、利益の多さだけだ。生きているから喰う、生きるために人を殺(あや)める。そんなデスペレーとな生き方だ。しかし、その絶望の深さが演技にあらわれていなし、映画そのものも主張過多で散漫になっている。

 一兵士として強制徴用された少年と父(ジャイモン・フンスー)の挿話も本作のサイドテーマで、その話しを膨らましても一遍の物語となる。現にフンスーの演技も評価され受賞は逃したがオスカーの助演男優賞にノミネートされた。しかし、父子との話だけになってしまうと社会派作品となってしまって娯楽性は希薄になり、アフリカの資源問題を広く知らしめる映画とはならない。ここにディカプリオという名の大きさがあり、彼が主演したことで娯楽性も獲得し、世界市場に出ることができた。大スターの公的存在理由は、そういう側面があるということだ。

 舞台となった西アフリカのシエラレオネの他に、台詞のなかで南アフリカアンゴラローデシアジンバブエリベリアという国が語られている。W杯サッカー、ラクビー大会を開催した南アフリカを除けば、大半の日本人には見えない国だ。いま国名を掲げたが、この並べ方はおかしいとすぐ気づいた人は国際感覚に鋭敏といえるかも知 れない。ローデシアジンバブエは同じ国であるからだ。ローデシアが英国より独立して黒人の主権国家となりジンバブエとなった。ディカプリオ演じる青年は、その植民地ローデシアに入植した英国人の父母のもとに生まれた。だから、彼はローデシアと語りつづける。彼とほのかな恋情を交わすことになる博愛主義者らしい女性ジャーナリスト(ジェニファー・コネリー)たちはジンバブエとしか言わない。そのあたりの細やかな演出は見落とせない。
 しかし、製作者たちのそうした意図は観る者に普遍的には伝わらないだろう。表題は、紛争の資金調達のため非合法的手段で取引きされている「紛争ダイヤモンド」の意味だが、日本人がその時事用語にどれだけ精通しているだろうか? 最近、首都圏で店舗拡大をつづけている宝飾品メーカー・ツツミは「紛争ダイヤモンド」は扱っていないと声明を出しているが・・・。
 現在、南スーダンで武力紛争がつづく地域は携帯電話などにつかわれるバッテリー用の希少金属の鉱床があることで悲惨な状況になっている。映画のなかで「(シエラレオネに)石油が出なくてよかった」と語る老人が登場する。現在の中東の紛争のおおきな要因もまた石油であってみれば、本来、埋蔵地をもつ国にとって掛け替えのない資源であるべきものが、ほとんど惨劇の温床となってしまっている。その矛盾をダイヤモンドに象徴化したのが本作である。

 本作にアントワープが登場するベルギーの都市だが、ここにダイヤモンドの 品質基準の選定、取引業者たちの倫理規定などを決める国際機関がある。
 ベルギーの発展もまた現在のコンゴ民主共和国を中心としたアフリカの地から富を収奪したことにある。特にレオポルド2世治世下におけるコンゴに対する圧政はすさまじく、総人口の5分の1が消えたといわれる。「イスラム国」戦闘員によるテロによってベルギーの首都ブリュセルが多大な被害を受けた。同市がテロ実行犯の潜伏場所となり、被害を受けたとき、レオポルド2世時代まで遡って南から審判が下されているように思ったのは、筆者ばかりではないだろう。
 
 シエラレオネの貧しい農民たちが強制労働 で川底の小石を掬いダイヤモンドの原石を探し出す光景は、アマゾン流域で金を探すブラジルの貧しい労働者たちの姿にも重なる。
 世界は不正に満ちている、と指弾したところで何も変わらないが、先進国といわれる国に住むわれわれは朝のコーヒー一杯から不正に加担している。それを自覚するかどうかは個人の知力と想像力、あるいは倫理観だろう。でも、そのコーヒーを飲むことは止められない。  2016-05-01記